読書量とか、教養とか、まーそんなもんでもないんだなこれが

友人に偉いのが居て、偉いと勝手に思っているのだけれど、知り合ったのは中学の頃で、その頃から、焼き物を見て回って、許す限りの予算で、そいつはまー裕福なので予算はあるけれど、それでも決して高すぎる範囲ではなくて、たまになんだか買って来て、ああだこうだ、形が悪いとか、品がないとか、そんなことを抜かすから、ここ数年ならば、二十一世紀にもなって、そんな批評があるかと、いちゃもんをつけてみるけれど、結局こちらも、お前が形だ、品だと言ったって、サマになってねーんだなんて物言いになるからバカバカしい話で、それで、ごちゃごちゃ言ってもハジマラナイと、この徳利をつかえば、酒の味がかわるんだなどと始まって、そんなことはあるまいと疑いながら試してみれば、そこに居る皆が皆、ほんとうに味がかわるのに驚いた、なんてことになる。

その徳利固有の性質ではなく、その焼き物全般の性質で肌がざらついているから、空気とよく混じるとその時は結論を出した。

そいつは窯元だの酒蔵だのをよく見に行く。真面目に通うから、先代が、遺して置いたものを出しましょうか?と手に入れることもある。うまいこと商売されているのかどうかは知らないけれど、こちらは単純だから、そういう世界があるのだなと聞いていて感心する。

食道楽だけはつくるまいが信条なので、お酒もどうでもいいのだけれど、日本酒なら銘柄が決まっていて、それも大学の先生が、二千円で一万円の味がする真面目な仕事だと、付き合いのある利き酒名人から聞いて来た受け売りを、そのまた受け売りにしているだけのこと。選ぶのは面倒で、一度飲んで気に入ったから、後は考えないようにしている。本当か嘘かは知らないけれど、その名人はふらりと寄った利き酒大会で、誤答無しのトンだ飛び入り優勝を果たして、それから随分と勉強されたそうだ。名人の本業は数学の教授。

その友人某君が面白いのは、どこだったかの店で、その酒を教えて飲ませてやったのはこちらなのに、仕入れのある酒屋を漸く見つけたと報告はあっても、どこにあるかは教えてくれない。アレを取り扱っている酒屋は限られていて、ぼうっとしていると手に入らないのだけれど、そいつは無闇に教えると流行って駄目になるからという考えだ。そりゃあ、あんたご無体な、とは思うけれど、流行ったから良い訳ではなく、流行ると駄目になるという、その理屈は判らなくもない。本来の一見さんお断りはそういうもので、自分で自分のなじみの店を探すのが大事なことで、今日はあそこ、明日はあそこ、秘密のお店と聞けば行ってみたいと思う野次馬根性は果たして良い物か悪い物か。旧処名跡を歩くのがある時から嫌になって、昔の武家屋敷等々、なんだか土足でずかずかと踏み込んでいるようで悪い気もすれば、観光施設になってすっかり魂も抜けているなと思ったりするけれど、多分、なにか通底することがあるのかと思う。

件の友人が、酒蔵を訪ねたら、よく洗って米の芯しか使って居らず、さわやかで均質な味が出るのも納得と大変感心していた。そこの親父は、今時こんな作り方だから、商売にはなりません、と言っていたそうだ。芯を使えばいいかと言えば、それぞれ伝わった製法があるだろうし、こちらもさっぱり判らない。正月用の濁り酒を今年はさすがにと、酒蔵に電話を入れたら、直接は売りません、と語気が幾分強かった。これは今までの顧客を大事と考えた一つの選択かと思う。

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こんな話と一緒にしては申し訳ないけれど、小林の焼き物話に、そんなものは所詮青山程度から聞いたことだと云う嫌みがある。それがほんとうにそういうものかどうかよく知らないけれど、例えそうだとしても、そんな程度の人びとが存外にものを支えているんだろうなと私はその友人を見ていて思う。

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父親が、自分の教育は戦争直後だったから何も知らないのだと仕切りに言うけれど、引退して暇になると、随分絵を見てまわったり、書を読もうと苦心していたり。展覧会に出かけても、私とは違って判った様なことは口にせず、ただ、あれはすごい、ほんとうに感心した、なんでこういうものを今までみなかったのだろう、と、そんなことだけで、ただ時間はそれなりに使っている。その様子を見ていれば、ほんとうに感心しているだろうから悪くないと思っている。事務屋とばかり見ていたけれど、そうではないようだ。

大体、本から入った知識など大したものではなく、環境が大事だと思っている。

軸がどう、額がどう、お盆やら何やらの行事から、所謂文化には入らないことでも、随分うるさいけれど、そうやってきちんとやっているから、こちらにもきちんと染み込むもので、教育などそんなもので、とってつけたような公の意見は存外働きは小さいと思っている。昔のものを大事にする。そこには、ちょっとした見栄なり、大した物でなくても金銭的価値の計算もあろうけれど、ではそんな功利的な側面だけかと言ってしまえば、まったく居心地が悪い。所謂、美しさなんてものだけかと言っても、これまた違う。

自分が取る立ち位置は、馬鹿げた意地だのなんだのでまた微妙だけれど、聞いていないフリをして、聞いていることは判っているようで、だから安心しているのだろう。ある程度は。

それぞれのものがそれぞれ生き残る経済の規模というものがあって、むやみやたらと何かを煽っても、大事なところが薄まるだけと常々感じている。染み込むだけのなにかを持つ相手に、何かが染み込むようにする。今の時代は、時間だけでなく、空間も随分端折って人と近づくことができるのだから、親から子へ伝えられていた物を幾分でも開放して、大事な物が染み込む相手、染み込ませて貰う相手をひょんなところに見つけるほうが、よほど肝要と考えている。勿論、薄まった何かを広めて、それが大仕事と思う人もあるけれど、自分はそれに組しない。*1

*1:後日の注:こういう書き物は、特定のスタイルなりリズムなりが重要で、内容はそれに合わせて変更される。
ここに書いた人物を「偉い」と書いたのも、美文の要請上、誉め讃えるスタイルにしたまでで、この数ヶ月後か一年くらいで度重なるなんやかやにうんざりして縁を切ってます。
うわっ、フレネミーって実際にあるんだな、俗流心理学と馬鹿にできないな、20年近くも気付かなかったなんて、と思った一件でした!
よく作家の手紙や日記などを典拠に引用しますけれど、ほんとのことを書いたとは限りませんよね。。。どこかで信じないとなにもできなくなりますが。