ありがちな批判の形式:非文学的日本古典案内 その6 オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』 and/or 『日本の弓術』 つづき

このネタ引き続き。

ちなみに、

 第一回 http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20091226/1261820042
 第二回 http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20100109/1262983759

弓と禅 の商品写真  弓と禅
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 福村出版

2016某日注:いまごろ振り返るとこの頃はまだまだですね。
『弓と禅』には新訳もでましたけれど私は中身を見ていません。

新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)  の商品写真  新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)
著者: オイゲン・ヘリゲル 翻訳: 魚住 孝至
出版社: 角川書店

『弓と禅』をじっくり読むと、オカルトなのかそうでないのかなかなか不思議です。『弓と禅』の自注にてヘリゲルは、ロマン派の小説家クライストの『マリオネット劇場について』に類似性があると言及しています。その邦訳はこちらに収録。

チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)  の商品写真  チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)
著者: H・V・クライスト 翻訳: 種村 季弘
出版社: 河出書房新社

ダンサーやヨガ、格闘技などやられる方なら興味深い体の動かし方の一考察で*1、これと類似性を見ているのならば、ヘリゲルは体の体感・内観に繊細で、その目で阿波範士とのやり取りを想起していることになる。それはオカルトの目では書けないことと思います。

ヘリゲルはオカルト風に謎掛け - 公案 - をここで出しているのではないか、、、。だから矛盾も放っておくのではないか・・・そう考えても良いのでは、と思ってしまうのですが、いざそう
考えると、他著作・・・例えば

禅の道 (講談社学術文庫) の商品写真  禅の道 (講談社学術文庫)
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 講談社

のヘリゲルが神秘主義のより正しい形態として禅を語っていることで、神やら一者やらとの合一がどうこうとなんだかよくわからんです。揺れ動く段階にあった、と思うべきではなのか。

自分で自分を変えることを学ぶので、他人に教わってもなんです。だから謎掛けも悪か無い。ヘリゲルと沢庵あたりを

不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7) の商品写真  不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
著作: 沢庵 宗彭
出版社: 徳間書店

追っかけて、自分の体を動かしたり、静かに観察したり、坐禅したりでいろいろやってみるにしくはないですね。自分で見つける訓練なんだし・・・

・・・というところまでヒントを出せば十分ではないか・・・無門関、、、無門関はどうかな、わたしも全部は到底よくわからない、、、洞山五頌をどこかで探してご覧下さいませ。書き下し文と注釈は読んでも、日本語訳は大概いまいちなので惑わされない様に。内観・内省を忘れず、自分でいろいろやったり読んだりが大事です。「自分で」というのがまた難儀だったりします。誰しも自分でできてるところだけ見たり、他人と比べたりしているのになかなか気付き難い。いま気付けているところしか見えないのをどうしよう、これが問題。

読書もそうですけれど、他人の意見がなんだか良さそうだと、実感がないのに判った気になったり、またはその言葉に足をすくわれて観察がおろそかになったりと、囚われることが多い。「そんなもの当たり前だ」と言いたくなる利口な方もいるでしょう。が、そう思ってしまう人に気付きにくい壁がありやしないか。「うん、そうなんだよね」と思うのと、「当たり前なこと言うな!」では心の状態が違いますが、それはどうしてそうなるのか・・・

今回は、この書籍の批判論文を取り上げます。自分の日頃の過ちに気付けるなかなか良い題材。もとは英語論文です。

http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/publications/jjrs/pdf/586.pdf

この論文の著者は、ヘリゲルや阿波範士の言わばエキセントリックな人格が問題であった・・・と考えていて、それが為に、批判がすっかり失敗している・・・などと言ってもさっぱりなので、のんびり行きましょう。

ヘリゲルも阿波範士もオカルト好きではありそうなので、そういいたくなるのも無理はないのですけれど・・・

*2

この論文を書くにあたってさまざま資料を調べられた労力は大変なもので、これはまことに敬服すべきことです。また、判りやすい記述はなかなか世間にないもので、そのお陰で小論の骨子が簡単に漏れなく掴めるのも誠にありがたいことです。はっきり書いてあるというだけで、大変貴重なことで、世間には自分が批判を返されない様に、あやふやに書く批判者が多いものです。この論文の筆者山田氏の堂々たる態度は、冗談抜きに素晴らしいのです。

さて、山田氏の批判点ですが、大きくは下記の6点が挙げられましょう。

  1. この書籍の著者ヘリゲルは新カント派の学者だったけれども、禅に興味もちはじめた頃には、神秘主義エックハルトにも興味をもつようになっていた
  2. ヘリゲルが禅に興味持った切っ掛けについて、日本滞在中に地震にあった際、ヘリゲルの周りではお坊さんだけが動揺しなかったからとのエピソードあり
  3. 阿波範士は、スピリチュアルな経験をしていたエキセントリックな男。その種スピリチュアルな話になると、爆発的におしゃべりするという奇妙な男であった
  4. 阿波範士は禅だ禅だと言いながら、禅の修行をしていない
  5. ヘリゲルは日本語ができなかったので、通訳が居ない時には、阿波範士の発言を勘違いしている可能性が高い。 また通訳の一人 小町谷氏は、阿波範士の発言が日本人にも意味が取りにくく、翻訳に苦労したと言っている。

  6. 闇夜に阿波範士が弓を射って的を当てたエピソード。この時には、通訳さえ居なかった。また、阿波範士は最初に射った矢を二本目の矢が当てたことについて、後で別の人に回想して、「あれは偶然。あんなこと見せるつもりはなかった。」 と言った由

弊ブログの読者には、いわずもがなになりますが、簡単にコメントすれば、

1-4については、平たく言えば、「ヘリゲルも阿波範士も似非宗教じみていてうさんくさい」と言っているのであって、『弓と禅(日本の弓術)』の中でヘリゲルが書き表している難問の解決にはまったくなっていない。*3

5について、これは中々よい指摘です。ですが、わたしは、ヘリゲルが通訳間違い・勘違いから考えてしまったとしても、西洋哲学と日本の武術との二つの相異なる説明方式がぶつかってできる難問を他に類書がないほどきちんと表していると思います。この本を読んだ際に感じる難しさをきちんと解決するのが重要で、インチキだ、オカルトだとレッテルを貼って、読むに価せずとするのは、乱暴に過ぎるのではないでしょうか?

論文の著者は、「それが射る」とヘリゲルがドイツ語で記述した部分で、阿波範士は「それです」と言っていたはずだとします。ですが、例えば、補助線として、

i) 阿波範士がSV構文に吊られて言い間違えた

ii)阿波範士が敢えてSV構文で話すつもりで、実体を指定するつもりのない“それ”をやむなく使った

としても大してかわりはしないのでは?そもそも、他の部分で、阿波範士は「それです」と実際に言っている。ヘリゲルが「それが射る」としたのは間違いだとしてもよいですが、そんなことをやいのやいの指摘しても、阿波範士が「それです」と表現することの説明にはなっていない。*4

6について、これも良い指摘です。というのは、この部分の阿波範士の発言は本書でもっとも意味がつかめない部分だからです。ただ、何故ヘリゲルが、この時、阿波範士が二本矢を放った結果を見て、心変わりしたのかについての説明にはなっていない。また、この書籍の他の部分のさまざまな難問は解決されていません。*5

以上、この論文の批判点は、「この書籍にはあやしいところがあるかもしれない」と予測させるものではあります、しかし、「この書籍はあやしいから読むのをやめよう」としてしまわないか?わたしはそんな懸念を持っております。山田氏は、『弓と禅(日本の弓術)』が妙な書き方でわけわからんので、オカルト風の無価値な書籍として縁を切りたい・・・と思ってしまっていやしないだろうか。

ヘリゲル『弓と禅』を読むにあたって、違う方法を取るならば、例えば、

  • この書籍は、間違いもあるかも知れないけれど、なにかを真面目に記述した書籍である・・・とまずはきちんと読み始める
  • そして、ヘリゲルも阿波範士も同じことを違う方向から説明しているだけなのに、なぜこれほど食い違っているように見えるのか、二人が満足するもっと良い説明方法はないか考える

という読み方ではないか?これは私の読み方であり、私のオススメの方法です。

批判論文の著者山田氏は、論文の初めには、禅と武術の云々は戦後に広まったと書きます。そして、禅と弓を重ね合わせた阿波範士もヘリゲルは、大変エキセントリックな人物だと指摘。しかし、論文末尾で、禅と武術を云々するのは日本では何百年もの伝統的だとして締めくくる。

ここに生じている混乱は、さてなんでしょう?

ヘリゲルが書き記した日本的思考法・日本的言葉の説明は、実に日本人自身がよくやるものではないでしょうか?根っこは間違っていなくても、表面的な表現方法で間違えてしまっていると考えるのは大事なこと、と言って置きましょう。

そんな一例を体験して頂くとすれば、柳生宗矩の話などなかなか良い例題と思います。幾つか細部の違うパターンで伝わっていると思いますが、私の知っている形ですと、*6

ある旗本が「剣術を教えてください」と柳生宗矩の元にやってくる。では木刀もって、と柳生は相対してみる。しばらくして、「あなた、 ほんとは剣術習っていたでしょ?」「いえ、全然」「そんなの信じられません。ほんとうのこと言ってください。」「いや、ほんとに全然」「しかし、あなたには動揺がない」「あたしは、常日頃 から武士はいつでも死ねないといけないと、そればっかりは心に銘じてまいったのです」「それができれば良いのです」と免状を渡した。

という話。不思議な話ですが、不思議さを解読するには例えば、以下を問うてみてはよいのでは・・・と思うのです。

  • 柳生宗矩は、その旗本になにをして、そして、旗本がなにをなさなかったから、動揺がないと思ったのですか?
  • 剣術稽古を今まで何もしていないずぶの素人のこの旗本は、実際に試合をしたら、大概の剣豪を倒せるくらい強かったのでしょうか?
  • いつでも死ねる心構えは、剣術の出来不出来とまったくイコールなのでしょうか?涅槃の仏陀や、張り付け前のキリストに刀を持たせたら、誰も適わないほどの腕前なのでしょうか?*7
  • そもそも、柳生宗矩は剣術の訓練を通じて何を教えようとしていたのでしょうか?斬る技術でしょうか?斬る技術だけでなく他のこともあったのでしょうか?

これら一見馬鹿馬鹿しい問いにどう答えるのか。大事なのは、この逸話には、答えらしきものはまったく説明されていないと判る事でしょう。答えが書かれていないからこそ、読み手は不思議さを感じるのではないでしょうか?解きたければ、テキスト外の条件(幾何の補助線)を持ち込んで、解くほかないのでは?*8

そもそも日本的な行動形式は、そんな問い直しを拒むとは言えないでしょうか?では、何故、問い直しを拒むのか?問い直しをする形式としない形式がなにが違うのか?*9

言葉でものごとを探るのであれば、そのように問うて行かない限り、言葉での説明は増えない。言葉で説明ができることと、実際できるのとは違う。ことの難しさの前にお茶を濁したいのであれば、この当たりの濁し方なら、今の私はしょうがないと言っても良い気が致しますが、やみくもに、昔の人は非合理的だとか、昔話はオカルトだと言ってすませば良いなんて考えはそれはそれで可能性を強引に捨て去ることであり、それこそ非合理的・反知性的態度になってしまわないか・・・そう思います。

*1:練習法が書いてあるわけでなく、短い一考察なので、あまり期待し過ぎてもあれですが。

*2:

禅という名の日本丸 の商品写真  禅という名の日本丸
著者: 山田 奨治
出版社: 弘文堂

に書籍もありますが、同じ失敗になっているでしょう。

*3:山田氏は、it is probably more appropriate to see Herrigel not so much as a logician but as a mystic who idolized Meister Eckhart.とまで書かれていますが、その論拠はなんでしょう?例えば、ニュートン錬金術士でもあったと知った途端に、ニュートンのプリンキピアは読無価値のないオカルト書籍になってしまうのでしょうか?

*4: iii) ヘリゲルのドイツ語のEsは、ドイツ人も大した主語を確定せずに用いる事もある。滞独10年の知人が違う見方を提示してくれました。

*5:まったく推測ですが、ヘリゲルはその日本の矢のできごとにすごい”根源的神秘体験”を見て、禅なり弓なりを続ける気になったのではないか、、、とは思います。暗闇の中の小さな灯火一つで寸分違わず弓を同じ場所に射ったことが、「<わたし>という心身の運用術の面で凄い!!!」とは・・・少なくともこのときは、思えなかったような気が致します。
しかし、そうであろうとなかろうと、それはヘリゲル側の事情であって、阿波範士があの「一見非合理的に見える説明」でなにを伝えようとしているのかを考えることにはならんのです。これ大事。

*6:いま出先で書いているので、後で若干訂正するやも・・・引用の正確性だけで、さして問題はないものの。

*7:死線をくぐっていない道場の達人よりも動けたとして、死線をくぐったそこそこ剣の扱いの上手い人にも勝てたのか?

*8:自分がどんな補助線を引いて、どう推察を進めて、とある結論に達したかを明確に知っておくことと、所謂禅問答のように間の説明を省いて、結論だけ提示することにどんな違いが生じるかを探ることはなかなかおもしろそうです。

*9:体得の説明ばかり重視して、言語の説明をまったくしていない。だから、言語の説明の可能性の探求は、元よりなされていない、こんな言い方はできましょう。そして、徹底的に体得を重んじる稽古と、言語を重んじる稽古のなにがどう違うのかなど考えてみるのも、なかなかおもしろそうです。