さらさらーーっと、あれやこれや

土曜日に参考書を調べたいので、英語学習法は土曜までなしです。


1.母親
http://mainichi.jp/life/kaasanchi/news/2008/06/46.html
に対して
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51064683.html
こんな感想。

1人目を産んだ時、お父さんは手伝ってくれず自分の両親は遠くに住んでいる。(初めてで
育児が)もちろんうまくいかないじゃないですか。で、2人目、3人目をあきらめてしまう。

だとしたら、わたしは生まれていない。

なお、母親に聞いた話で、嫁に行く前に母が自分の父親に言われたことは、「色々と大変だろうけれど、しっかりやりなさい」だけだったそうです。いままでそんなこと無かったのに、いきなり呼ばれて、何だ?と思ったと。小さい頃に亡くなったので、わたしの記憶も乏しいですが、すごいおっかなくて、正直合うのにおどおどしていたけれど、かろうじて残る思い出の欠片をたどると、大事に思っていてくれたのが今更ながら判る。

発言者が、自分がどんどん親&義理の親に“頼んで”やらせた通り、自分に孫ができたら嫁・息子に使われるのか、正直疑問を感じた。(親御さんが、理屈で勝てず、勢いに負けて、よく判らないけれど、引き受けていないのか。)

こういう話は、頑張っている母親&情けない父親の典型ながら、既婚者の知人が多かった集いで家庭の話が出て来たら

「子供は要るけど、正直嫁さん要らない」

と言っている人が8割方だった。サンプルは少ない、20家族くらいか、それに偏りもあるはず。でも驚いた。皆不満は表に出さずに、家で適宜スルーして(それは話し合いが足りない原因でもあろうけど)、他の女の人とお布団に入るのである(←これはウソ。浮気までしている人はかなり少ない。これもちょっとびっくりした。ここは繕っているかも知れない)。*1

ということで、社会に母親力があってもいいのだが、如何?

世の父親がただ単に黙っていることもあろう。DVも減るって気軽に書いてるけど、そもそもどれだけの割合なのか。

威勢良く、攻撃的・挑発的に発言しているけれど、自分の事情を素朴に一般化させているという意識があるのか、ないのか。

子供だって、父親を選ぶ場合も居るだろう。二人子供が居たら、子供同士で「君がお父さんのとこに行くなら、ボクがお母さんのところに」ってこともあるだろう。

いずれにせよ、普通に円満な夫婦生活を送っている人には???なことだろう。円満な夫婦が、社会に父親力・社会に母親力なんて話に、???と感じることを期待したい。

メディアに載った意見だけが、主流じゃないと思う。


2.父上と母上にあらせられる
上の話を見せても、「世の中いろいろな人が居るから」と言うであろう、そう言いながら、「我が家のやり方ではございません」と異文化の話としてしか、受け取らないであろうウチの両親が、西方の某神社と高野山に旅行に。

旅行と行っても、神社には我が家のルーツありな伝承があって、高野山は、町の菩提寺真言宗だから総本山なので、単なる旅行でもない。

父親も引退してから、町のことだの、その手のことに、微力を注いでいるけれど、思うに、

 仕事をしている内からそれができない世の中のシステムって変じゃない?

ではなかろうか。

家庭と勤務先の二つの世界しかないでしょ?普通。

我々の所属する世界ってそれだけなのか?

わが町、わが国、わが宗廟、、、大事なことはいろいろあります。それぞれ時間&場所のカバーしている範囲が異なる。*2

父親がそれで過度に信心づいたりしないよう、神様・仏様はご先祖様だ、の範疇から出ないよう、当初は警戒したが杞憂だったようだ。ってお布施の額とか議論になります、今でも。

父親が町の古老の集いに出席して、正直に感心していたのが、

 外の仕事をしていて、町の連中なんて世界が狭いと思っていたけれど、ほんとうに町のことを
 考えているのは彼らだと判った。

とのこと。私の町で私の住む地域は、室町の頃にほんとうにこの町を切り開いた人の子孫ばかりなので、単なる町の古老ではないのだ。そういうことでこの古い町には敬意を持つ。なんにもないんだけど。

*****

世の中引退したら離婚という事例があって、先日の集いでそういうカミングアウトもあったけれど、実は父親の引退の10余年ほど前から、そのリスクに対して、布石を貼って居りました。やはり少々母親に対して気遣いの足りなかった父親に対して、

「子供をだしに使わずに二人でお行きなさい。そーゆーことがなさすぎました。私は参りませんよ。」

と。

・・・言いながら、実際は自分のデートを優先したのである。

それは兎も角、家族の単位を夫婦に変えて、無理矢理でかけさせたものでありました(最初は父親は嫌がっておりました)。海外出張の特典マイルも「あーたがたでお使いなさい」と。

*****

本題に戻して、高野山には、また偉い感心して帰って来た。

「いやーすごいね。宗教というのは人を惹き付けるんだね」

写真なり、地図で見せてもらったが、確かに感心。こりゃ文化だ。

ビジネス風に言うと、支店の支店にあたるわが町の寺も世襲になっていまい、それが人ごとになってしまった一因とおもうのですが、戦争で記録が失われ、GHQのありがたい改革のせいで個人財産になってしまったのだけど、そもそも、わが町の寺は、町の共有財産で、旦那がたが一代毎に本山から高僧を招くという方式だった。

入会地の話で、そういうコミュニティーの財産だったころは、って話は言の葉に上りますが、お寺もそうだった。というのは、よくよく考える必要があろうかなと。

宗教ってのは、没我のあまり心も財産も預けるものでなくって、お弔いしてもらう為の特殊技術者として、意識的に雇っていたって言えないかしら?

わが町の寺に関しては、あっちゃこっちゃに新しい建物を建てては、位を挙げてもらおうと必死なんですが、これに関しては、人の魂で飯食ってんだから、もうちょっと真面目におやんなさいよ。としか、言えない。共有だった頃に、旦那がたがどう運営していたのかは興味深い。

総本山はそうやってまだ人を感動させる立派なものなんだから、なんかこー、真面目にならせられないもんですかねー、支店も。

なお、これは戦前、維新以前のまちの運営についてもそうで、郷土史で名主の行動だの、村長の発言を調べると、実に感心することがある。


3.占い師がはやっている
ってNHKのTV番組を見ていて、幾ら何でも教養が足りないと思った。
相談つったって、信頼できる友達居らんのかい。
占い師と似たもんに過ぎない、なんちゃって心理学が流行った頃にも、そう思っていた方は実は多かろう。
教養ないよ。
いまだって、「クラシック音楽は脳にいい!」なんて書いちゃうわけでしょ。
似たような内容の新書ばっかり書いている著者の本、ありがたく読んでるでしょう。
ちょっと数字使ったまやかしだってあるし、数学コネタまーけてぃんぐとか。
世界のスタンダードですとか、まやかしは幾らでもあらーなー。
大小の不安をちょいと煽って、まやかしで飯食うってやり方に、対抗する教養が欠けているのかなと。

・・・なんて言ってる側から、自分が引っかかったりして。

*1:「そちらがそう仰るなら」と、性質のいい乳母さんなり、家政婦さん雇うって選択する男は幾らでもいると思う。揉めてもしょうがないと黙っているんじゃないの?

*2:ヨーロッパ人の仕事先の友人と話をしていると、そこら辺うまくやっている様子でほとほと感心。