前のエントリーに続くような続かないような、、、

・・・ことを書いてしまうと、、、って、前回エントリーのtopic1ですが、あの手の前時代の制度全否定な物言いにはかなりあきあきしている。

ここをどう、あそこをどうってポイントとごとの話にそろそろ持って行ってもらいたいなと。

TVでも、自分の母親が虐げられていて、それがかわいそうでと涙ながらにいまの学問につながるのだと力説する教授が居たけれど、それはあなたのお父さんがひどい人だったのではないのかしら?と思わなくもない。

なんかこー、自分の家庭でなんとかなるよーな問題で、社会がどー、時代がどーというのも、愚生などはそろそろそんなことはいい加減に・・・と思うけど、まだ足りないと頑張る人もいるだろーことはよく判る。

けど、割と迎合する人が多いので、「そりゃ、あなたの個人的都合なり、事情じゃないのでしょうか?」と一応意見は表明しておきたい!

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でもって、自分の個人的事情を語ってしまうと、曾祖父母の関係なんて、どう考えても不幸に思えない。

曾祖母は幼稚園の頃までは生きて居たので、遊んでもらって記憶にあるけれど、筋目のある人だったと子供心にでも判った。どんなに暴れてあそんでいても、

「あなた達、お婆様のずいずいずっころばしだと大人しくなって、1時間くらいずっとやってたもの」

と。

どう考えても、曾祖父の私設秘書だし(そんなの〜って言ったら、外で秘書やってるのはおーけー?何故?)、自宅の会合全て切り盛りして居たのだし。

家と言うものが会社と同じものであれば、奥さんといっても外向けの仕事も多いのだし、次代を教育するとか、文化の継承とか、結構役割は多い。

それが盆暮れのなになにだけでなく、さすが武家の女性で、武具の手入れで、目釘がどうまで教えるのも彼女の役目だったのにはちょっと驚いた。彼女が嫁に来る前に、自分の親からそれを教わっていたのだと想像すると、歴史だな〜と面白く感じる。

・・・という話を聞いていると、さすがに今現在、武具の手入れを教える役目は終えたのかも知れないけれど、かつてどんな役割を担っていたか、というのはもちっと複雑に考えないと、いけないのでは?

・・・というのが、そのあたりの話を聞いての実感。彼女が家の犠牲にと思う人も居るかもしれないけれど、その旦那も第一義がそこにあったので犠牲と言ったら夫婦揃って犠牲になる。ただまー、そういうことは現代の核家族的感性で考えて、不幸とかなんとか言ってもどうかしら?と思う。

おしどり夫婦ぶりな会話を一つ。
大戦中のこと。空襲警報がなって。

「さあさあおじいさん、明かりを消さないと」
「こんなちっぽけな明かりでなにが漏れると思う?笠まで掛けて、びっちり戸締まりして、漏れるわけがなかろうが」
「まぁ、そう仰らずに消してください」
「大体、気に入らないことは幾らでもある。竹槍で勝てるわけがないだろう、、、、ったくばかばかしい」
「まぁまぁ、そう言っても、世の中が世の中ですから」

防空壕に行く前に、曾祖父は常にトイレに用を足す習慣があったそうだけれど、その度に、怒られていたとのこと。

・・・上の会話に垣間見えるのは夫婦の話だけでもなく、例えば、この頃は狂気の時代、、、みたいにひとくくりにされてしまうけれど、こういうのももちっと複雑に見ないとどうだったのか。どこの誰が狂気だったのか、というのはそう簡単に、身分や職業や何やらで割り切ってでてくるものでもないと思うのだけれど。

シンプルにしましょ〜というのは、そこら辺の怖さを判っている人がやっているならいい。*1しかし、自分のご都合だけですか?って調子で、自分の損得勘定の道だけをシンプルに作ってしまう人も多い。前者は利口で、後者は鈍感だとしたい。

*1:たまには情報を漏らしますと、みなさん、ご存知のシンプルにしましょ〜の兄さんは、学生自時分からそこら辺は判っている人でした。卒論辺りでは、モデルを持って世の中を見るのが宜しからぬという話になり、院では本来複雑系をやりたいのになどと。ここら辺は、あまり言いすぎるのもなんなので、ここまで!