続きます。今回で一応おしまいです。
その1 http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090429/1240942422
その2 http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090430/1241023083
前回も電波を飛ばしましたが、今一度、これをお読みになって、
http://www.slowbusiness.org/article.php/200807_ishii_alex
http://blog.livedoor.jp/littlesounds/archives/2009-04.html#20090421
「ようわからんが、なんかあるのかもね」という程度にお感じになったらそれでいいんじゃないかと思います。
結局、
やってみないとよぅわからん
もんで、私自身予想通りのところも、「おー、この感覚は全然違う!」というものもありました。一番大事なところを勘違いしていたんだから、伸び悩むはずです。*1
冒頭のリンク先に、
「アレクサンダー・テクニークには、いろいろな刺激に対する反応の質を変えるワークである、という定義もあります。」
ですとか、
「(まわりの人からの刺激に対して)より全体的にそのことに向っていく、という訓練でもあります。」
とありますが、このもの辺りをきっちり感じつつ、あーそーだなぁと思えるかどうかは、中々、字で読んだだけではうまくいかないのではと思います。
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さて、こっから電波な考察というか感想をまた書いてみます。
1.日本の古来の体の動かし方との関連性
わたしの“習い事”がそういうものなのですが、お師匠さまが言っていることとアレクサンダーテクニークで目指すところが、大変共通するところがあって、本質的には同じものではないか?と感じました。古来の動きなるものは、古武術でも、お茶でも、仕舞でも、なんでも一緒だと思うのですが、一番肝要なところが、19世紀的な西洋化で導入された“体育”によって(部分的な筋力の強化とその部分的使用。安易な「ひねる・うねる」運動等々)、失われてしまっているのでは?という気が致します。
よって、アレクサンダーテクニークを受けなければ判らない、他に類を見ない世界だ、と云う気はないのです。が、我々が19世紀的西洋化を受け入れてしまっている分、その否定であるアレクサンダーテクニークの説明法・身体運用法は入り易いのではないか?・・・と思います。
また、アレクサンダーテクニークの面白い所は、一番最初の心構えというか、体構えというか、非常に基本的なところに注力するのも長所かなと。*2
もし、目指すところ、ないしは、本質が同じとしたら、それを別様の説明・実践法でやってくれているのだから、共通点を考えることで、理解し易くなるのでは?なんて思います。
大体、アレクサンダーテクニークの外国の本を見ると、よく日本の古武術の大家の写真などが説明されていたりもするものです。向こう側は、共通性を感じ取っているということでしょう。
2.心身並行論
心身並行論的なお話は、大概は字面で読んで、「風邪のときは、気が弱くなるよねー」と言った程度の理解をするものでしょうし、逆に運動から入る方は、「体を鍛えて、根性が云々、、、」なんてものではないでしょうか?
前々から、なんで剣術の大家が座禅を組みに行ったりするのかさっぱり判らなかったのですが、体の使い方と心の様相がもっと精妙なところで一致するのではないかな・・・と今は実にそんなことを思います。気合いだ、根性だではなく、もちっと精妙なところで。
何かを目にした耳にした際の、首筋のこわばりに心の動揺がでる。そういったものの制御は、心だけでなくて、体からも攻められる・・・心と体のどちらからもアプローチしないと本物にはならない。簡単に云えば、こんなことでしょうか。
よって、体術の訓練ながらも、臆病のあまり人を攻撃しがちな方や、なにかにつけて他人にすがってしまうなんて方が受けてみると、良い結果になるのではないか・・・と思います。
煩い人は、まったく理屈を介せずにぎゃーぎゃー云うものですが、彼らは、体の動揺を見て、攻めるポイントを判断しているのではないでしょうか?そもそも理屈で判断していない。姿勢や雰囲気を見ながら、困ったり、嫌がることを積極的に探しているだけではないか?理屈を解さないから、たわごとで厄介に過ぎないのですが、そういう輩を相手せねばならない時もあるので、役立つことも多かろうかなと思います。*3 *4
3.婉曲的かつ漸次的にしか得られないもの
われわれは何ごとも、お手軽なhow toで、直接的・短期的に利を得られる物事を目指す・・・という思考法に慣れていますが、婉曲的かつ漸次的にアプローチしないと得られないものがあると云うのはなかなか面白い考え方だと思います。
婉曲的というとちょっと語弊があって、実はそれだけが直接的な方法なのだ・・・と開き直ることができる気も致します。
婉曲的とはどういうことか、自分なりに考えるところで云えば、やはり、体全体が相互に関連するシステムだなと納得することに尽きるかと。膝が痛むからと、脚の使い方だけ考えてもダメで、遠因は首筋がこわばっていたり、と簡単にいうとそんなことがある。ある部分の活用が全体に及ぼす影響をよく習熟すれば、その逆に、ポリフォニックに体を使うことも可能になるのでは等々、いろいろ考えは進みます。(体を部分的に活用して、対処療法的に手直ししている限り、体全体を一調子に活用することなんて無理なのは、ロジカルに理解できるかなと。)
4.非目的思考
婉曲的・漸次的に関連しますが、アレクサンダーテクニークでは、「end-gainingは宜しくない」と目的思考を咎めます。直すというより、自分で段々と気づくこと、気づけば自然にどうにかしようと治癒がはじまるなんて言ってもいいかも知れません。大きな枠では、自然法的って言って良いのでしょうか?
気づくにあたっては、むしろ、自分に曇りがないようにニュートラルの状態を目指す、それではじめて気づくことができるなんて感じです。だから、上述の婉曲的、漸次的というものになるんだと思います。
出来る限り、なにもしていないニュートラルな状態を目指しながら、そこで気づかされる諸問題が地道に治って行く。最初から万全にできる訳がないけれど、方向性だけはそっちを向いてやらないと宜しくない様子。ある程度から先は、大変技術的なものでもあって、なんといいますか、簡単な例では、割合きちっとゆるゆると歩ける人でも、椅子を座ったり立ったりするときはよっこらしょということはあり得る。なにかのミラクルで「はい、この瞬間からあなたは完璧にグッドです」なんてことはない・・・これを受け入れられるかどうかは結構大きなことでしょう。
通常、我々は「はい、これが目的、次はこっちがゴール」と鼻面を引っ掻き回されますが、果たしてそれがどれだけ有効か。じっとしていて聞こえてくるものから、目をそらす為にだけ働いているのではないか・・・なんて思います。
できるだけの多くの鼻面を大きく引っ掻き回した方が、偉いんだ・・・と考えるなら、こんな思考法は無意味なことでしょう
しかしながら、その手の茶番につきあわされない自分を作るには、なかなか有効な手段になるのではないか、、、とそんな気が致します。
・・・以上、電波な戯言でした。*5
*1:とは言え、善し悪しは見てなんとなく判るのは不思議なことで、実践と評価は違うんだなぁと、実にそんなことを。
*2:日本古来の体術は、そんな19世紀西欧的(と取りあえず私が読んでいる)運動法が、まったくない世界で組み立てられたもの。だから、そんな曲が事からの手直しについては、触れていないと思うのですが如何でしょう?
*3:理屈を解せずに、物事をなんでも勝負で捉えるような相手に対して、真人間と思って理屈で説得するのは、甚だ無駄な作業ではないかと思います。言語を持たない野生動物のコミュニケーションを想定した方が良いのでしょう。言語を使うから言語コミュニケーションをしていると思うから誤りで、ある種の人間が発する、意味不明の言辞、無駄な抑揚、声の強弱や、同じ内容の繰り返し等々、完全に非言語的コミュニケーションなんだと思うべきことが多々あるのではないかと。。。いう当たり前の話に。えらそーなおっさんが、バタンと手帳を机に置いて、大声で話して、注目をコントロール使用としたときのもっとも効果的な対応は、「あぁ、ほんとは気が弱いんだな」と完璧に無視するとかいろいろ方向性が開けます。インテリの人はついつい言葉や理論での方向だけ考えるけれども、ある種の群については、power以外の言語がないので、それを持つほかないという結論も引き出しうるかと思います。
*4:日本の習慣は・・・古来からでなく、戦後のことなんだろうと思いますが、理屈を忌避して、姿勢や雰囲気の争いに持ち込み過ぎですよね。結局、そればかりで勝てないから、外人にしてやられるのだと思います。B29に竹槍から成長していない。
*5:2016年某日注:前々回のエントリーに書いたことを繰り返しますが、思想的なこと、言葉遣いなどは、アレクサンダー本人の著作を読んだ方が良いと思います。 The Use of the Self 『自分のつかい方』 アレクサンダー・テクニーク入門―能力を出しきるからだの使い方 (実践講座) 写真でわかる子ども操体法―親子でやれる心と体のバランス運動 (健康双書)
著者: F.M. Alexander
出版社: Orion
フレデリック・マティアス・アレクサンダー著
晩成書房
実際の練習法法は、これがちゃんと書かれているものは、まずもってない。ヨガやストレッチ等々の指南本同様初心者向けの一連の練習法詳細が出ていればいいのですが、、、。頭&首にはどこよりも気を使うけれど、だからってそこだけ見ろってことではないようですし、ひとまずは
著者: サラ・バーカー
出版社: ビイングネットプレス
著者: 武田 忠
出版社: 農山漁村文化協会