弊ブログに毎度お越しの方には、いや、多分そーでない方にも、百も承知なことながら、「やっぱ、そうだよなぁ」と思ったので・・・
先日、のみに行った時の会話。
せるげ「なんか、最初にさ、『俺/ワタシを信じないのか?』みたいなとこから入る人いるじゃない。あれって、100%利用したいだけと思って間違いないよね。」
相手「???いや、大体あってると思うけど、なんでまた?」
「いやほれ、2000年前の、信じる/信じないって、目の前で奇跡起こしたことになってんだから、一応。そりゃ誰でも信じるよ。つまり、信じる/信じないは、当然の帰結であって、そこから始めるこっちゃない。でも、なんでまた後世になって話がかわるんだか、、、って、説明になってないし、なんか違う方向に話がすすんだかもしれないけれど。」
「そういうことね」
「意図的に騙そうとしてないとしてもさ、信じているかどうかの勝負を最初にもってくる人って、その為の論拠と判断に疎いから、多分、自分のこともよー見えてないだろうし、そうすっと極めて単純な利己的な動機で動いている人が多いだろうな・・・とか、考えたのよ。理屈で勝負できないから、そういうとこで勝負するってこともあんだろうし。『熱意をわかって欲しい』という演じ手とか、『一生懸命やってるからイイ!』とか言っちゃう受け手と一緒で。」*1
「ほうほう」
「みんながある意味利己的だとかなんとかは言えるけど、まともな輩なら、お互い損得勘定して、取り過ぎちゃまずいな、、、とかならーね、普通に良心的なら。でも、そーでない人って、最低限度の分析も欠けてる。もろもろ、いい加減だろうから、相手しないに越したことないんだろうなぁ、、、と。微妙に暴論じみているけれど、まーそんなとこかなと」
・・・と相手がそこで話をついだのは、暫く前だかに、ばっちりかるとにひっかかっちゃった人の話。
「前にいたんですよ。そーゆーの。」
「いたんだ」
「『お前、○○信じる?』っていきなりゆってきまして」
「はぁ、、、」
「そういわれてもなんだけど、向こうはもう信じているから、教えられた理屈を滔々とくりかえすのですわ」
「イタイねぁ。。。」
「それで、ひとしきり話し終えると、『俺も悩んでいたんだよ。一ヶ月くらいすごい悩んだ』とか、そんなこと言うんですわ」
「(苦笑)・・・勿論、何を悩んだのかと言えばっ」
「そう、、、信じるか/信じないか!」
二人「(爆!)」
「すごいよね、それ。どう考えても、『信じるか、信じないか』悩んでたんでしょ?」
「そのようで〜す」
「信じるも、信じないも、判断材料なんだったんだって聞きたいよね、とことん」
「深入りすると大変だし、、、そーゆーの」
「きっと、ずっと『信じるか、信じないか』悩んだんだろうな、、、、「オレは信じるのか、信じないのか、それとも、信じないのか、、、いや、信じるのか」って。悩む悩むってよくいうけど、悩むのって、考えてないってことなんだよね。自分の経験でも判るけど。」
「まーそうですなぁ。もしくは、考えられる与件が足りないか、、、」
「・・・・・なら、わからんっと言っておけば済むのにねぇ、、、なんなんですかね。。。それでも悩まないといけないことは多々有るけれど、なんなんですかねぇ。」
「・・・・・」
「最後は、無根拠に決めたんだから、『私は根拠はないのですが、信じることにしました』って言えばいいんだよね、きちんと。」
「(笑い!)それ、面白い。そこを端折って、『信じる』になるから、いい加減さが欠ける。」
「人に話する時も、ちゃんと『オレ根拠はわかんないけど、取りあえず信じてんだけど、お前も信じる?信じよーぜ!』って言えばいいんだよね。」
二人して、結構、そういう感じのコントで馬鹿な笑いをしてました、暫く、、、
「あれだよね、端からみると、不可思議ではあるんだけど、一定数は常にそういう人が居る。滔々と分けの判らん事を云われると信じてしまう人が、歩留まり程度は居る。その連中から巻き上げられる位、悪徳ははびこる」
「まぁ、そういうしかないでしょう。」
「進化論だなぁぁぁ」
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さすがに上のようなところで、悩むということはここまで読まれた方にはないと「信じて」おりますが、ついつい、同じ構造の過ちはやってしまうものです。「これおいしい!」でもなんでも、どんな分野でも、これイイね/ダメだね の価値判断の際はそういうエラーは起こりうる。
なるべく安上がりにとか、なるべく簡便にでもいいから、一応自分で確認する・・・これだけなんでしょう。。。最後は、「えいやっ」はちょっとあるけど。*2
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最近話題の桑田さんの発言面白かったです。
あれも、結局、「自分で考える」って話なんですよね。でも、コーチだなんだは、「俺のいうことがきけないのか」から入る(すべてが言葉で言える理屈でなりたっているわけではないことは承知しますが、その点はいまはほかっておきます)。
時折、本邦は中世から突然近代に入っちゃったなぁ、啓蒙時代がないよなぁ〜と思う事があるのですが、これまた底がつながった話でありましょう。
桑田さんと言えば、
コーチ論 (光文社新書)
著者: 織田 淳太郎
出版社: 光文社
にも出てくるし、似た様な話がいろいろ載ってます。アマゾンのレビューはそこそこな評価が多いけれど、わたしは大変面白く読みました。それなりにベストセラーになったはずだけど、めずらしくそういうものを読んだ中の一つ。
そもそも、「自分で考えない」人作りたいんでしょ・・・って、そこまで見透かしている人も、実際多いのでは?
スポーツでも、古い体術を利用してなんて話が出てきますが、得てして現代のものは進んでいると思ってしまうけれど、勿論「そりゃそうだ」の分野と、「そうでもない」の分野があるという・・・当たり前のことですが、なかなかそうは思わない。
判断基準がないからこそ、新しい/古いって数字で判ることに左右されてる・・・そんなケースが場合も多いのでしょう。
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おまけにもう少し関連の推薦
新装版 洗脳体験 (宝島SUGOI文庫)
著者: 二澤 雅喜, 島田 裕巳
出版社: 宝島社
英語の聞き取りがそこそこできるなら、こちらもぜひチャレンジしてくださいませ!Adam CurtisのThe Century of the self