小林秀雄の中庸再び ー 二項対立で捉えずに、素直に全体を眺めてみる

真面目に書いた話ほど、反響を呼ばないと観念しているせるげーです。みんな、どっかいっちゃえ!!!以下、真面目にいくよぅぅぅ



先日、http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20081113/1226558905で挙げた小林秀雄の『中庸』ですが、冒頭の文章が面白いもの。


 左翼でなければ右翼、進歩主義でなければ反動主義、平和派でなければ好戦派、どっちともつかぬ意見を抱いている様な者は、日和見主義者と言って、ものの役には立たぬ連中である。そういう考え方を、現代の政治主義ははやらせている。もっとも、これを、考え方と称すべきか、甚だ疑わしい。何故かというと、そういう考え方は、凡そ人間の考え方の自律性というものに対するひどい侮蔑を含んでいるからである。現代の政治が、ものの考え方など、権力行為という獣を養う食糧位にしか考えていない事は、衆目の見るところである。

 昔、孔子が、中庸の徳を説いたことは、誰も知るところだが、彼が生きた時代もまた、政治的に紛乱した恐るべき時代であったことを念頭に置いて考えなければ、中庸などという言葉は死語であると思う。

ここから、小林は議論を初めて、


無論、彼の言う中庸とは、両極端にある考え方の間に、正しい中間的真理があるというような、簡単な考え方ではなかった

(中略)

様々な種類の正しいと信じられた思想があり、その中で最上と判定するものを選ぶことなどが問題なのではない。凡そ正しく考えるという人間の能力自体の絶対的な価値の救助とか、回復とかが目指されているのだ。そういう希いが中庸と名付けられているのである。彼の逆説的な表現は、この希いを示す。私はそう思う。

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫) の商品写真  Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)
著者: 小林 秀雄
出版社: 新潮社

と。

いつぞや書いた、素直に見る、全体を見るなんて話に絡みます。*1

しかしながら、我々は実際に素直に見られるのか、我々はいつだってなにか規定の枠をもってものを見るのではないか、、、等々ややこしい話があって、それは原理的には正しい。しかし、原理的な不可能性なんてものは、確かに気にかけることも時に必要だけれども、あやしいことだって多々ある。やってみれば、ある程度できてしまう、と気軽に構えるのも悪くはなさそうです。

実生活の中で、素直によく見て、自分が見ている者・物が自ら語ってくるのを待てば、さまざまいつもと違う印象を抱くことは誰しも経験していることと思います。

ほんとに出来ているかは判らないけれど、そういうつもりでやってみる。一回それがうまくいったからと言って、安心しないで、次回は次回で今一度試してみる。初心を保つですとか、明鏡止水ですとか、昔の言葉は、そこから先は論理的にうまく語れないものごとを、巧みな表現で固定化している。しかし、初心、初心、明鏡止水だ、と唱えてみれば、なんとなくその気になってしまう。そこが、おそろしいものです。そうなれば、言葉もあやしいから、黙る。だから、座禅だの、武道の型稽古だのがあるのでしょう。そして、それだってまた形だけのマンネリになる。

あんまり便利さを追求すると底が浅いのですが、ひとまず、小林が『中庸』の冒頭に指摘した、世間にありふれた二項対立の図式をまずもって、対立させないで捉えてみるのが第一歩かな、とそんなことをよく考えます。考えているだけでうまくいかないので、いつもそこ止まりです。

個と全体、疑うと信じる、だって、無理矢理つくった二項対立の例でしょう。他にもいろいろあります。馬鹿げた心理テストの直感的/理性的もそうです。理想的/現実的、理論的/現実的、観念的/実践的、挙げていったらまやかしの二項対立は切りがない。

二項対立がいけない。こんな話は、例えば、哲学の入門書だとそこで主観/客観、過去/現在、などを取り出して、宜しくないと幾らでも書いてある。それで、ニーチェが偉いのは、主観が客観を見る、過去が現在を規定するという図式をひっくり返したことだ、、、と、まぁ簡単な入門書にはそんなことが書いてある。ただ、そんなものなら、ひっくり返しただけだから余り偉いようにも思えません。

あっちをとれないなら、こっちなんて対立させる、そもそも対立させる右と左の項がワンセットで与えられる。そうすると、考えるのは楽です。白か黒かどっちだなんて威勢が良くなってくる。後は、運動会なり、なんなりと一緒。赤勝て、白勝て、と周囲と一体した昂揚感を持って、あぁ気持ちがいい、とそれだけの話です。

しかし、楽と感ずるからには、なにかの簡便さがあって、その簡便さは実はコントロールする側にも楽で、それで、右にも左にも属さず傍らにいる第三項がうまいことやっている、こんなことも今更言うべくもないことでしょう。二項だけ見させれば、第三項は自分の存在を見せずに済む。そんな事例は、どこを見回しても見つかるものだと思います。出来合いの二項のどちらかをを選ばせようという運動、あれかこれかと迫るもの、そんなものは、なにかにつけてあやしいと疑うのが利口ではないでしょうか?

では自分の第三項をどう見つけ出すか。そこを探すのは難しそうですが、とりあえずは二項を対立させないところからはじめれば、自ずと開かれてくるような気が致します。

そもそも、二項なんて対立しているものなのかどうか?

理想は、現実を見て、かくあるべしと考えつくもの。理論は日常生活の常識から一歩下がって見いだした新しい捉え方ですが、現実を観察し、現実を説明することは変わらない。個がなければ全体はありません。みんなが玉砕したら、全体はなくなります。全体がなければ、個が大変な場合もある。「国なんてどうだっていいんだ」って人は、海外に行って、パスポートを捨てるといい。直感的な判断と理性的判断が、どうして対立するものなのか?

それは全然対立する二項ではなく、粗雑に例えれば、「この場面では、金槌と鋏のどちらを使おうか?」ということに過ぎないのではないか?鋏で釘を打てといっても詮無いこと。でも、軽い釘ならば、鋏が重ければ、逆手に持ってなんとかなる。しかし、金槌で切れってのは中々大変です。

これかあれかと迫られても、これ と あれ のそれぞれが一体なんなのか、どう機能しているのか、どういう関係なのか等々、ちょっと考えれば判ることをついついさぼって、結局は周囲の流れに遅れまいとかなんとか、馬鹿げた行動にはまる。

馬は一匹駆け出すと皆が駆け出す習性を持つと聞いたことがあります。ほんとうか嘘か、それが馬だけなのかは知りません。なにはあろうと、二本足で歩いていて、結局、馬と同じ行動をとっているなら、果たしてそれは如何なものか、そう思います。馬に競争させて繁栄するのは馬自身ではありません。

馬鹿げた話ですが、階段で人様の近くに居るとき、ちょっと急ぎ足をして見ると、結構、つられて急ぐ方があるものです。気を抜けば、我々なんぞ馬と一緒だ、くらいに思っておく方が、いいのかも知れません。*2

やはり、小林秀雄は大したものだと思います。繰り返しましょう、


そういう考え方は、凡そ人間の考え方の自律性というものに対するひどい侮蔑を含んでいるからである。

小林秀雄も講演の中で、君らはなにを思っているのか、なにを考えているのか、と再三個々人の意見を問う人でした。*3


*1:2016年某日注:これを書いている自分の私もあまりものが見えてないのですが、上の小林の文章はかっこいいし、大きく見れば間違っているともいいがたいけれど、ややこしく語りがちです。
ここで言われていることを、いまの私なりに纏めると・・・人はなにかと既存の枠組み、レッテル張りに囚われてしまう。選択肢はあたえられていると思い込んで、自分の立場を選ぶ。ものごとを自分の目で見よう、耳で聞こうともしていない。ものごとの詳細を虚心に眺めれば、そこから理解が生じ、答えが見えて来る。虚心に詳細に眺めた度合いで、答えの偏り・党派制は減るだろう。それを、誰からも離れた中にある、間にある、という意味で中庸というのだ。
この纏め方が気に入られたら、このブログであれば、とりあえず
http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20091226/1261820042
http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090204/1233680318
http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090429/1240942422
これらのエントリーをどうぞ。いまの目からは拙いものですが、最近、幾らか注釈で訂正・補助をすませました。

*2:二項で考えないからと、型がいっぱい!のどーぶつ占いに興じていたら、滑稽以外のなにものでもありますまい。

*3:後日注:こういう話は、体を使って思索もしてという方法で、禅宗系統なりヨガ系とうなりから攻めるのが良いと思うようになりました。ご興味とお時間あれば、
http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20100113/1263364030
http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090501/1241116080
http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20100113/1263364030
あたりをごらんくださいませ。