最近読んだ本などなど その4 & 非文学的日本古典案内 その5 オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』 and/or 『日本の弓術』

思いついた時にだけ書いております。今回取り上げるのは、

弓と禅 の商品写真  弓と禅
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 福村出版

日本の弓術 (岩波文庫)  の商品写真  日本の弓術 (岩波文庫)
著者: オイゲンヘリゲル
出版社: 岩波書店

私は福村出版社版を読みましたが、比べてないのでいろいろある翻訳がそれぞれどうなのかは判りません。*1内容は、ドイツ人の哲学者がちょうど大戦前の時期に、日本で弓術を習った、その体験録。これが簡単に読もうと思えば、簡単に読めるし、これは豊かな書物かも・・・と読んで行けば、実にいろいろと知らせてくれる面白い本。こんなに薄いのになんて重要なことばかり書いてあるのかと思う程です。

このところ続き物で書いている最近読んだ本などなどシリーズ(その1 / その2 / その3)に入れても良いし、前からごくたまに書いている非文学的日本古典案内シリーズに入れてもよいので(その4に直結します その4のi / 4のii / 4のiii)、タイトルが上のようになってます。

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宜しくない読み方と言えば、下の岩波版を開いた頁の商品の紹介にあるような

的にあてることを考えるな、ただ弓を引き矢が離れるのを待って射あてるのだ、という阿波師範の言葉に当惑しながら著者(1884‐1955)は5年間研鑽 を積み、その体験をふまえてドイツに帰国後講演を行なった。ここには西欧の徹底した合理的・論理的な精神がいかに日本の非合理的・直観的な思考に接近し遂に弓術を会得するに至ったかが冷静に分析されている。

のように片や合理的・論理的、片や非合理的・直感的と奇麗に分けてしまう読み方ではないでしょうか。エキゾチックで曖昧だけど、なんか良い事言ってるよね東洋!温故知新だよ!なんか全部、美につながるよね!神秘的だね!なんてつもりで読んでは、全然だめなんじゃないか。*2
*3

我々自身が当たり前と思って、読み過ごす、聞き流す事を、ヘリゲルが外人の立場で、逐一先生の阿波範士に問答してくれます。そもそも、言葉自体が間違いをもたらすからとお師匠様が説明したがらないのを、ロゴス上等!!の国からやってきたヘリゲルがむりくり話させた・・・その結果、我々は体験を伴わない書籍という形でとあるものごとに接することができた。しかし、書籍は、不完全であり、誤解もまねきやすい・・・でも、記録に残してくれたのは実に有り難いこと。現代の我々は、すっかり変わってしまっているから、阿波範士の言葉に反応するヘリゲルは、ほとんど今の我々と言えるのではあるまいか。ヘリゲルの解釈で何か明晰になったのではなく、ヘリゲルが見事に悩んでくれたお陰で、阿波範士の言葉を引き出すことに成功し、その意味の重要性を予感して、大切に記録してくれたことがすごいのです。

そんなヘリゲルとそのお師匠さま阿波範士の異文化コミュニケーションは、結構、ユーモラスでもあって、私が喫茶店で読みながら吹き出してしまったのはこの場面。ヘリゲルには、お師匠さまの言う事がさっぱり判らない。実際には私が的を射るのにもかかわらず、そもそも的を射ようなどと思うなとは一体なんなんだ・・・こんな類いの疑問があれやこれやと浮かび、上達しているのかなんなのか判らずに数年の月日が経ちます。

師範は私の心の中に起こっている事を感知したに違いない。彼はその当時 ー 小町谷氏が後から私に知らせてくれたのであるが − 日本語の哲学概論を熟読玩味して、私のなじみ深いこの側面から、私の指導を続行する方法を、見出そうと試みたのであつた。

お師匠さまは、その努力をどう実らせたのか・・・

併し結局彼は、こんな事を研究している人間には、弓道を身につける事は極めてむつかしいに違いないという事が、やっと分かつたという思いで、この書物を不機嫌そうに放り出したという事である。

さて、阿波範士は西洋哲学が判らないから本を投げたのか。そういう面だってあるかも知れない、ただ阿波範士が哲学概論を「熟読玩味」したと、ヘリゲルは書いています。大体、文中に山ほどでてくる、ヘリゲルと阿波範士のやり取りを読めば、阿波範士はヘリゲルの言葉をきちんと理解し、それを使いながらきちんと自らの考えを表現してい判ることは、誰にも明白なことでしょう。

あまりごちゃごちゃ言っても致し方ないので、今ひとつ、面白いと思う部分を挙げますと。「一年たつてやつと弓を“精神的に”即ち力強くしかも骨折らずに引く事ができる」ようになったヘリゲルの弓の稽古は、次の段階“放れ”−端的には、つがえた矢を、弦から右手をはずして放つこと−に進みます。これがうまくできない、「右手を開くに當つて先ず第一に拇指を押さえている三本の指を開く事が、努力なしでは出来ない」。そのせいで、衝撃が起こり、射が乱れる。しかし、どうにもうまくできないと思い悩む。そこで阿波範士曰く、

「あなたは何をしなければならないかを考えてはいけません。どのように放れをやるべきであるかとあれこれ考えてはならないのです。射というものは實際、射手自身がびつくりするような時にだけ滑らかになるのです。弓の弦が、それをしつかり抑えている拇指を卒然として切断する底でなければなりません。即ちあなたは右手を故意に開いてはならないのです。」
この言葉を聞いても、一向に改善は観られない。そんなある日に、偶然なのか故意なのか、ヘリゲルは阿波範士にお茶に呼ばれ、こんな問答を致します。

 私は云つた。「放れが臺なしにされない為には、手が衝撃的に開かれてはならない事はよく分かります。併しどのように私が振る舞つてもいつも逆になるのです。私が手を出来るだけしつかり閉じていると、開く時の同様は避けられません。之に反して手をゆるめて放そうと苦心すれば、弦がまだ十分に引き絞る廣さに達しないうちに、私には氣が付かないですが、やはり早過ぎて引き離されます。この二通りの失敗の間を右往左往して、私は抜け道が見出せないのです。」と。

 師範は答えて云つた。「あなたは引き絞つた弦を、いわば幼な兒がさし出された指を握るように抑えねばなりません。幼な兒はいつも吾々が驚く程、その小さな拳の力でしつかり指を握ります。しかもその指を放なす時には少しの衝撃も起こりません。何故だか御存じですか。というのは幼な兒は考えないからです − 今自分はそこにある別の者を摑む爲にその指を放なすのだとでもいう風に。むしろ小兒は全く考えなしに、又意圖も持たずこれからあれへと轉々して行きます。それで小兒は物と遊んでいる − 同様に物が小兒と遊んでいるとは云えないにしても − と云わねばならないでしょう」と。

この著作には、実に見事で、再び読んだ時に、「もしやそういうことだったか!」と意味が開かれる記述が多いですが、この一連のやり取りはその中でも実にすばらしいものでした。いつものフレーズですが、未読でいらっしゃったら、騙されたと思ってお手にどうぞ!全体が見事に一体を成していて、今思えば、小著ながらも一切章立てがないのは、ヘリゲルがそれを狙ったからではないかとも思います。*4

弓と禅 の商品写真  弓と禅
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 福村出版

日本の弓術 (岩波文庫)  の商品写真  日本の弓術 (岩波文庫)
著者: オイゲンヘリゲル
出版社: 岩波書店

いま私は、阿波範士の言葉は、比喩でもなんでもなく、なんの含みもなく、「そうあるべき。やってごらんなさい。」ということを出来る限り具体的に表現しただけだと考えております。この問答から話はいろいろ広げられて、意志、意識、自我、過去、現在といった言葉の意味はなんなのか、それらを実はそんなにきっちり分からずに使う自分自身に気付かせられる。そして、それらの言葉のセットを日常で実際に用いるということはなんなのか、それらの言葉のセットを使った際の限界とは何か、言葉だけ論理的にやり取りしてしまったら果たしてどうなるのか。言葉のセットを使用したからこそ出てくる問題と、実際の問題に差はあるのかないのか。

結構、切りがありません。私と道具、的の関係とはなんなのか、その関係は果たして私の中にあるのか?私がそれを考えたからと言って、私の中にあるのか?範士は言葉のやり取りをしているのか?言うなれば、心も体も一体となった私の運用の話とすると、果たしてこの本は言葉だけ追って理解できるのか?そもそも、言葉で理解するとはなんぞや? そして、上に広げていろいろ考えてみた事は、実際に弓を射る稽古なのか、そうでないのか。*5

最後に私が先日まで持っていた勘違いを恥ずかしながらに書きますと・・・。考えずにやりなさいという範士の言葉を読んで、考えずにやればできるというなら、無意識にやればできる、元々わたしは答えを知っている、自分の本能的とも云える感覚を引き出せば万事うまくいく・・・そんなことだと考えておりました。実にこれが間違いで、元々答えを知っているのではなく、万事を現在として把握するなんて言い方をすべきことで、また、それは分けも分からずにできるのではなく、出来た暁には、はっきりと明晰であること。別の言い方をすれば、わたしの癖、間違った自分自身に関する認識を捨て去って、まったく新たに かつ 正しく動く為の、答えそのものではなく、答えを得る為の方法論といったものだった。うまい言い方ができないので、却って混乱しそうですが、いずれにせよそう分かってから、やっとスタートラインに立つ準備ができたんだ、、、とそんなことを感じました。

随分長くなりましたが、最後に大変面白い映像を。



*1:2016年某日注:新訳もあります。

新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)  の商品写真  新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)
著者: オイゲン・ヘリゲル 翻訳: 魚住 孝至
出版社: 角川書店

*2:阿波範士の言葉が、合理的でない、論理的でない・・・とするなら、ヴィトゲンシュタインはどうなるのか?

*3:2016年某日注:単なる神秘家なら自注の中で、クライストの『マリオネット劇場について』に類似性があると言及するのか・・・これを書いていた2008年当時は見落としていました。『マリオネット劇場について』の邦訳はこちらに収録。

チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)  の商品写真  チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)
著者: H・V・クライスト 翻訳: 種村 季弘
出版社: 河出書房新社

*4:2016某日:「あなたは何をしなければならないかを考えてはいけません。」これなど未来の想定の禁止ですよね。では、いまなにをやるべきか・・・。集中。集中の中身ってなにかしら・・・もしくはどう辿り着くのか・・・。目的は弓を引き、的に当てるとして、さていまなにをすべきなのか?いわゆる、地図と現地の問題も絡みます。

*5:今一度、阿波範士の言葉が、合理的でない、論理的でない・・・とするなら、ヴィトゲンシュタインはどうなるのか?

論理哲学論考 (岩波文庫)  の商品写真  論理哲学論考 (岩波文庫)
著者: ウィトゲンシュタイン 翻訳: 野矢茂樹
出版社: 岩波書店

『論考』『青色本』読解 の商品写真  『論考』『青色本』読解
著者: ウィトゲンシュタイン 翻訳: 黒崎宏
出版社: 産業図書

ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究 の商品写真  ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究
著者: ウィトゲンシュタイン 翻訳: 藤本 隆志
出版社: 大修館書店

『哲学的探求』読解 の商品写真  『哲学的探求』読解
著者: ウィトゲンシュタイン 翻訳・解説: 黒崎宏
出版社: 産業図書


2016年某日注:これを書いた2008年当時はまだまだです。あまり判らずにウィトゲンシュタインを持ち出している。でもウィトゲンシュタインのつまづいたところを考えるのも良い練習課題になります。前期ウィトゲンシュタインに従って、犬に向かって、お前は曖昧なんだから吼えるな!という者は天才論理学者か?実際、ウィトゲンシュタインは、馬鹿だと思う人の話はさえぎりかぶせる癖があったようです。ろくに聞かないんじゃないかな・・・
後期ウィトゲンシュタインはなにがアレなのか?再三「哲学は無意味である」といってますね。ならどうするの?
しかし、こういうヒントがあるから、答えが導かれたりするもので、自分で類似のケースに問題を発見できるわけではない。こんなこと自分で思いつくのが、目指す涅槃=清浄=落ち着いた状態 ではあるまいか?