2012.01.31付けご注意:
山岡鉄舟に関しては、一時資料があまりに乏しいのですが、元々のエントリーで取り上げた安倍正人編『鉄舟随感録』は創作部分が非常多いと指摘する研究がありました。
http://www.tesshu.info/abe.html
http://www.tesshu.info/ushiyama.html
伝記に尾ひれはひれは付き物とは言えますが、そうはいっても看過できない部分が多い。故に、何分一時資料を見る身分でないのでいかんともし難いながら、おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝
を取りあえずの正として、ところどころ取り消し線や注意書きをつけました。これらだって真偽の問題はあるけれど、およそ世の中の鉄舟逸話の元ネタである、そうです。
著者: 小倉鐵樹(小倉鉄樹)
出版社: 島津書房
元々のタイトルも「豪商に神妙の言を聞く山岡鉄舟『鉄舟随感録』」から「鉄舟と両刃鋒を交えて避くるを須いず・・・の公案」に変えました。「豪商に神妙の言を聞く」逸話に傍証がなく、どうも胡散臭いつけたしのようです。
この一連のエントリー自体取り下げれるのも手ですが、それは勿体ないと思う部分もあって、かえってややこしい文章になってしまい相済みません。
前々回 http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090204/1233680318
前回 http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090206/1233861375
の続き。本日で鉄舟をとりあげた一連のエントリーは最後にします。安倍正人編『鉄舟随感録』から有名な話(らしい)を取り上げて居ります。鉄舟と両刃鋒を交えて避くるを須いず・・・の公案の逸話を取り上げて居ります。
この話、わたしの感想は、前回書いた通り、よく分らんな〜ですが・・・なんでそう思うかというと、どっからどう話していいか判りませんが、、、
取りあえずは、一度出て来た滴水和尚様の公案を解題してみましょう
両刃鋒を交えて避くるを須(もちい)いず。好手は還って火裏の蓮の如し、宛然として自ずから衝天の気あり。
両刃が峰を交えたのですから、対戦が始まったのでしょう。そうなったら、「避ける」を「もちいない」のですから、「一手一手で逃げを打つな」ということか、「もう始まったんだから、試合放棄はできない。試合にちゃんとのぞみなさい」といったことでしょうか。
次の「火裏の蓮」とは、蓮の華が火中にあってよい芳香を発するだとか、ますます奇麗になるとかそんなことらしいです。となると、好手つまり良い一手は、ピンチのなかで生まれんだよ、ってな意味でしょう。
宛然は、「そのまんま」とか、「実にそんなもんだ」といった意味ですから、そのまんまにしてれば自然に天を衝くチャンスになりますよ・・・と。
という意味です。
その前に、滴水和尚さんは、理を説く鉄舟に「眼鏡を挟んでものをみているようだな〜」と感想を漏らしてますし、鉄舟が悩まされていたのは浅利の不可思議な剣・・・。商売人の話も動機々々してしまった失敗をめぐるものですから、前回末尾に引用した鉄舟自作と言われる詩文を見ると、浅利が山のように見えてしまったけれど、解決してからは、そういった幻身は見なかったというのですから、"惑わされない"ですとか、"余計な事を考えない"といったことがキーワードになりそうです。
幻惑されないということは、よくあるようなフェイントをかわすとか、つまるところ、拳と切っ先を共に見ておけば良い、とか、そんなことだけには納まらないのだと思われます。それだけだったら、20歳そこそこで幕府の講武所の世話係に異例の抜擢された鉄舟が悩むことではないのでは?
そんでもって、
よくある解釈 その1:要は気合いだ、動じるな、焦るな
となるのでしょうが、それは商売人の第二の失敗 「そこで真実世間の相場も分らずなれり、それが為めにかれこれ迷ふて非常に狼狽せり。ここに於て自分に断念して、構はず放任して置きたり。」に相当するのではないかなと。*1
考えてみましょう。鉄舟が開眼して、浅利に奥義を伝授して貰ったの「大いに妙理を得たり」という言葉をもらったのは、明治十三年。幕末に大仕事を成した鉄舟です。官軍の間を一人、西郷に密書を届けに行ったという逸話もご存知でしょう。そんな鉄舟が、「要は気合いだ、動じるな、焦るな」というだけのことで悩むかなと。
今回の話は、やはり、剣術の話です。これを忘れてはいかんと思います。「無」だなんだという考え方だけでよければ、和尚さんが対戦して勝ってしまいます。*2
捨て身の覚悟どうこうとも、ちょっと違うような気がします。捨て身は捨て身かも知れないけれども。何故かと言うと、幕末に官軍の間を堂々と通り過ぎて、駿府の西郷陣地の単身訪問を行った鉄舟ですから、いわゆる捨て身なら出来ていたと思う他ない。それが出来た人でさえ、明治十三年まで悩んで大悟した何かなのでしょう。
商売人の話を聞いて、「これは!」と思った鉄舟が、
この翌日より之を剣法に試み夜は復た沈思精考する事約五日、従前の如く専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。
得たアイディアを剣術に応用するのに五日間、「沈思精考」していること。この「沈思精考」がなんぞやということは非常に判らない・・・。それが判らないということは判った方が、いいかなと。
商売人の話も、「商法の気合」というものは商売人にははっきり見えているようですし、「先づ我が心の明らかなる時に確と思ひ極め置き」とありますから、その「確と思ひ極め置」いたことがなんなのか、、、ということはある。対人関係で相手を黙らせる・・・といった程度の話ではないなとそう思います。
直感を信ぜよ、みたいな話は、では直感とはなんぞやと考えると、よい直感も悪い直感もありそうです。鉄舟が浅利との対戦に直感で判断したとしても、「沈思精考」しうる直感でしょうから、ないしは、直感を引き出す工夫を「沈思精考」し得る直感ですから、我々が普段やるような”山勘”とは違うと思われます。
この辺りは、やっぱり、門外漢には判らんなと思わないといけないことかなと。*3
かといって、
よくある解釈 その2:でも、結局、日々の鍛錬がよきことを導いたのさ・・・毎日精進しよう
はどうか。
鉄舟の詩文の結びの言葉にもそうあります。確かにそうですが、これもそれだけではないなと思います。
浅利の剣術は、「果たして世上流行する所の剣術と大に異り、外柔にして内剛、精神を呼吸に凝して勝機を未撃に知る。真に明眼の達人と謂つべし。」であったのです。それまでも十二分に稽古を積んだ鉄舟ですが、そのまま努力して、この開眼を果たして得たものか・・・
やはり、浅利の剣法に出会ったということが、重要な要素。世間一般の剣術と違って、9歳から剣術を習い始めて、20歳そこそこで幕府の講武所の世話係に異例の抜擢をされた鉄舟でさえ、30手前で浅利と相対して、びっくりしてしまったのですから、出会わなければ、その後の開眼はなかった可能性が大きい、と考えても不思議ではないのでは?
努力の方向性というものは、決して馬鹿にできない話です。
その方向性をもたらしたのは、「浅利ってなんだかデキるらしいぞ対戦してみよう」という好奇心がある・・・などといろいろ話をつづけることができるでしょう。
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という次第で、抽象化すると、
- 人一倍努力する事
- よーく考える事
- 同じ努力だけでなく、方向性にも工夫する事
- なにか違う出会いを求める事
なんてことになりまして、もう一つ
- 良いアイディアは困難にあたってはじめてでてくる
なんて入れてもいいのかな(使い方あやまって身を滅ぼすか・・・)。しかし、こう並べてみると、そこらの啓発本にも幾らでもでてきそうな話ですが、そんなわけがないですよね?
そんなわけがないだろうと思うには、小倉鉄樹『おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝』、圓山牧田『鉄舟居士の真面目』などを読んでいただく他ないかと。そこに出て来る事跡のあれこれを見ていると、そんなわけがないと思うのです。もっと重要な何かがあるんだと。
変な話になりました。ではまた〜
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以上が、2009年時点の私の文章を訂正したものです。もともと参考にした安倍正人『鉄舟随感録』のあやしいと思われる部分を取り消して、体裁を改めたもの。
それだけはちょっと物足りないので、2012年時点の感想として、多少付け加えておきます。この話は、我々の在り方そのものであり、我々の己自身の改善法であり、また、その場その場の最善の判断を行うことにも通じるようです。
とある事態に十全に身をさらす、とある事態を十全に受け入れること。
いわゆる、意識・意志といったものを否定すること。無意識の働きを十全に活用する、というか、そもそも意識とは無意識の一部がclose upされただけではないか?
それそのものの「事実」と、我々の(意識にのぼったことも含めた)無意識が「事実としていること」の間のズレをどう治すか?
といったことと絡んでいるのですが、いまのところ、うまく言えません。
現代人はこの点がなってなさすぎるのではないか。例えば、戯画的に語りますが、何事もいい加減に対応し、自分自身ついても常に曖昧にし、よその権威を頼る風を決め込んで、常に逃げ道を作る大人の対応という誤摩化しなんぞをやっている。
昔の人に比べて守るものが増えたから、自己防衛的になるのかも知れませんが・・・。昔の人でも、主人側はいい加減なものか・・・
なんにせよ、こういうことを言うと、「そんなこと判っている!」とキレられたり、それが大人だとニヤニヤ顔をされるのが通常です。が、その「判っている」が、ほんとに判っているのかどうかが判らんのが世の中の通常の姿では?その場その場の自分の都合でやっている、というはっきりした意識がなく、「みんなやっている」だとか、「自分が損する」だとか、そんな程度の欲求が渦巻いてるのも実はろくに判ってないのではないか・・・。
ここらを考えるに、本だけ読んだって足りなくて、体を動かして感じる中で得た思想を本で確かめるのでないとだめではないか・・・とあれこれやっているけれど、どうしたものかまだ探求中。
たまに何か開けるような気が起きてきて、よく判らないまま打ち捨てていた、
の難問に、三年越しで漸くまた向かい合っている、というところです。
しかし、よくわからないながらも、敢えて書いておくと・・・
2016年某日注:
・・・とここから、先に推薦図書とコメントを2012年の自分なりに書いていたのですが、いまの時点で見るといまいち過ぎるので、修正致します。
この頃だったら、「日頃悪癖の澱に頭の先まで使っておいて、火の中にあってはじめて宛然としているようではこれいかに」なんて返し方はできませんね。
この手の話だと、たいがいまず龍樹か般若心経に向かうのが通常でしょうか・・・
龍樹 (講談社学術文庫)
著者: 中村 元
出版社: 講談社般若心経の新解釈 (パープル叢書)
著者: 平川 彰
出版社: 世界聖典刊行協会この二冊なら、平川さんの方が、テキスト解釈より実体験に引きつけて語るのでおすすめしやすいのですが、どちらもどうかな・・・。
龍樹も言語表現に拘泥したから出て来る問題なだけではないか・・・。中観的な考えは龍樹の専売特許ではないですし。後者得意の、○即△といった表現は、あまりに便利な表現だけれど実体はなんとやら。
重要問題の周りを巡りながらも曖昧に謎めいて語ることしかできなかったものが意外に世の中ではもてはやされます。明解に表現したものは、むしろ、当たり前に見えて埋もれ廃れてしまう。
謎めいたものを、信奉する者達が取り囲み、掲げる。
正法眼蔵〈1〉 (原文対照現代語訳・道元禅師全集)
著: 道元 訳註:水野弥穂子
出版社: 春秋社道元は、ここで禅語録を解題するというスタイルを取っていますが、あまりに文法無視での「意訳」をします。そうやって解説したことがらが、例え正しいにせよ、読者は、テキスト解釈の流れには沿うから、いろいろと混乱するのではないか?それはそれで元テキストの言わんとしていたことは、ないがしろにされないか・・・?
ここら辺を割り切って、道元は自分の思想を語っているだけだ、とすらすら読めればいいけれど、初学者などは特になにかと混乱させられやすまいか。
ということで、正法眼蔵はもっと後の日のために取っておく方が良いと思います。
鉄舟が悩んだ「両刃鋒を交えて避くるを須いず・・・」の一句を含む洞山五頌に「あっ、わかった!」と解読が進む経験を何回か経たあたりで、道元の正法眼蔵に向かう - 言ってみれば、そんなタイミングくらいか。
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では、他になにを進めるか - ヘリゲルと沢庵あたりからはじめるのが、私のおすすめ。
弓と禅
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 福村出版不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
著作: 沢庵 宗彭
出版社: 徳間書店『弓と禅』なんて無の公案を広げて引き伸ばして現代風にしたものと感じます。現代日本人なら、阿波範士の説明より、ヘリゲルの悩みの方が親近感がわくのでは。
上のヘリゲル・沢庵の二冊とも、日常の具体的な行いと思索が交じっているのが良いところ。机上で言葉だけこねての思想ではない。
この二つだけということはないですが、挙げないでおきましょう。
体を動かして考えるといっても、激しい運動と静かな運動ともにやった方が良さそうです。激しい方は世間に幾らでも指南書がありますので、静かな方を挙げてみると・・・
写真でわかる子ども操体法―親子でやれる心と体のバランス運動 (健康双書)
著者: 武田 忠
出版社: 農山漁村文化協会The Use of the Self
著者: F.M. Alexander
出版社: Orion『自分のつかい方』
フレデリック・マティアス・アレクサンダー著
晩成書房アレクサンダー・テクニーク入門―能力を出しきるからだの使い方 (実践講座)
著者: サラ・バーカー
出版社: ビイングネットプレスこのF.M.アレクサンダーという人は、人が自分の体の運用を改善するに当ってのもろもろを考えた方で、大変おもしろい文章を残しています。言葉遣いからして、繊細に工夫され、ユニークなものになっています。
彼の苦労を学びながら、自分も具体的な実践を言葉で考える。それは、ヘリゲルや沢庵の扱った問題に読み解くに、大きな手助けになると思っております。
こんなこといきなり言われても、突飛で変な話やも知れませんが・・・
我々は、言葉でやり取りすることに慣れ過ぎて実は言葉に絡めとられている。まずは具体的なことを五感でしっかり捉えて、あらためて言葉で表現してみる・・・という努力をしてみると、いろいろ変わって見えて来る。
アレクサンダーは、もともとはわれわれ近代人・現代人の抱える通念で生きていて、それを自ら変えました。ならば、彼の軌跡をたどることは、我々が違う一歩に踏み出すのに参考になると想像して無理はない。
ヘリゲルも西洋の正当派としてこの問題に相対しましたが、いまのわれわれもすっかり「合理化」しているので、ヘリゲルの困惑をより身近に感じるでしょう。そういう意味で、彼の記録はやはりわれわれに役立つ
沢庵は初学者にわかりやすく説明するのが上手過ぎて、謎がない。親切だけれど、省かないので、その部分部分をもらさずに全体を理解しようとすると存外大変です。謎がないので、忘れられたのでしょう。不動智神妙録のように運動について考えたことも、テキスト勉強のインテリが見下した遠因ではないでしょうか?しかし、その価値は読んでみれば、すぐに判ることと思います。
いずれにせよ、まず言葉で考えずに、言葉を捨てて、五感で感じて考えること。これが存外に難しい、とほとほと困るくらいからやっとスタートでしょうか
*1:商売人の話云々は、『おれの師匠 山岡鉄舟正伝』にも、『鉄舟居士の真面目』にもまったく出てこないので、扱わないことにします。
*2:なので、「無」というものは、我々が簡単に思いつく無常観みたいなものではないのでしょうね。単にこの世ははかないと諦めただけだったら、商売人の「自分に断念して、構はず放任して」みたいなものですから。もしかして、「無」って判る人には、すごく具体的に捉えられるものだったりして。
*3:とは言いながら、一応、心身が相互に影響するというどころか一体であるという話は、それはそれで興味深く。私もここはいま探し物をしているところ。例えば The Alexander Technique: A Skill for Life 実践アレクサンダー・テクニーク――自分を生かす技術
Pedro De Alcantara著
出版社: Crowood Pr
上のThe Alexander Thchnique: A Skill for Lifeの邦訳です
著者: ペドロ・デ・アルカンタラ
出版社: 春秋社