非文学的日本古典案内 その4:鉄舟と両刃鋒を交えて避くるを須いず・・・の公案の続き

2012.01.31付けご注意:
山岡鉄舟に関しては、一時資料があまりに乏しいのですが、元々のエントリーで取り上げた安倍正人編『鉄舟随感録』は創作部分が非常多いと指摘する研究がありました。
http://www.tesshu.info/abe.html
http://www.tesshu.info/ushiyama.html
伝記に尾ひれはひれは付き物とは言えますが、そうはいっても看過できない部分が多い。故に、何分一時資料を見る身分でないのでいかんともし難いながら、

おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝 の商品写真  おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝
著者: 小倉鐵樹(小倉鉄樹)
出版社: 島津書房

鉄舟居士の真面目 の商品写真  鉄舟居士の真面目
著者: 全生庵三世住職 圓山牧田

を取りあえずの正として、ところどころ取り消し線や注意書きをつけました。これらだって真偽の問題はあるけれど、およそ世の中の鉄舟逸話の元ネタである、そうです。
元々のタイトルも「豪商に神妙の言を聞く山岡鉄舟『鉄舟随感録』」から「鉄舟と両刃鋒を交えて避くるを須いず・・・の公案」に変えました。「豪商に神妙の言を聞く」逸話に傍証がなく、どうも胡散臭いつけたしのようです。
この一連のエントリー自体取り下げれるのも手ですが、それは勿体ないと思う部分もあって、かえってややこしい文章になってしまい相済みません。


前回 http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090204/1233680318の続きです。

安倍正人編『鉄舟随感録』から有名な話(らしい)を取り上げて居ります。鉄舟と両刃鋒を交えて避くるを須いず・・・の公案の逸話を取り上げて居ります。前回迄の経緯、今一度各自抑えて頂いて・・・

「さて!本日の“その時、歴史が変わった”ですが、、、」と松平さんが身を乗り出したところです。山岡鉄舟のところに、揮毫を求めて来た商売人が、「自己の経歴を談ず。話中すこぶる神妙の言あり」。

全文抜き書きして置きましょう。


 世の中は妙な者であります。私は自分ながら不可思議に思ふなり。私は元来赤貧の家に生れたりしが、今日は不計(はからず)も巨万の富を致せり、誠に案外なり。然るに私が唯一つ青年の頃より是れはと思ふ事は、嘗つて金の四、五百円計り出来たるときに商品を仕入れたりしが、豈計らんや、物価が下落の気味だとの世評なるが故に、早く売り払ひたしと思ひしに、同僚輩が何となく弱みにつけ込んで、踏落さんとするより、一増自分の心は動機々々せり。其動機の為めに、何となく胸が騒々しくなれり。

 そこで真実世間の相場も分らずなれり、それが為めにかれこれ迷ふて非常に狼狽せり。ここに於て自分に断念して、構はず放任して置きたり。それより日数を経て、再び商人共が来りて元価に一割高く買ふべしと云へり。今度は自分に於て、前と打て替つて、一割の利にては売らずと答へり。然る処又妙に五分突上げて来れり、其処にて売りおかばよかりしに、自分が慾に目眩んで、高く売らう売らうと思ふ内に畢竟二割以上の損をなして売れり。此時初めて商法の気合を悟れり。

 若し踏込んで大商をなさんと思へば、総て勝敗利損にびくびくしては商法はならぬものなり思へり。たとへば事必らず勝利を得んと思へば、胸が動機々々致し、損をするならんと思へば、己身が縮まるやうなり。其処で自分は如斯(かくのごとき)ことに心配をなすは、迚も大事業をなすこと能はずと思ひ、爾後何事を企つとも、先づ我が心の明らかなる時に確と思ひ極め置き、而して後仕事に着手せば、決して是非に執着せず、ズンズン遣ることに致せり。其後は大略損得に拘らず、本統の商人になりて、今日に至れり云々・・・・・・

前掲書 P.251〜252

この話を聞いた鉄舟は、*1「前の滴水の両刃交峰不須避、云々の語句と相対照し、余の剣道と交へ考ふる時は、其妙味言ふ可からざるものあり。時に明治十三年三月二十五日なり」。

それで、「この翌日より之を剣法に試み夜は復た沈思精考する事約五日、従前の如く専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。」*2

そうして、感服のあまり入門したけれども、何度対戦してもどうにも適わなかった浅利義明を座したままに思い浮かべる鉄舟。いままでは「恰も山に対するが如し。真に当るべからざるものとす」だったのに、今度ばかりは「然るに従前と異なり、剣前更に浅利の幻身を見ずに是に於てか窃(ひそか)に喜ぶ」。

試しに、門人を招いて試合をしてみると、なにもしない内に相手は降参。何故かと問うと、いままで何度も対戦したけれど、「今日の如き刀勢の不可思議なるを見ず、吾れ到底先生の身前に立つこと能はず、斯の如き人力もて為し得べきものなるや」と。*3

次には、浅利義明にぜひ今一度試合をと頼み、対戦と相成ります。

一声忽ち電光石火の勢なり。浅利突然刀を抛ち兜を脱し容を正して曰く、子既に達せり矣、到底前日の比にあらざるなり、余亦及ぶところにあらず、吾れ豈其秘を伝へざるべけんやとて一刀斎がいわゆる無相剣の極地を以て遂に余に伝へらる。時は是れ明治十三年三月三十日なり。*4

・・・と通常ここら辺まで引用して、「要は気合いだ」「我を失うな」という話になるのですが、鉄舟はこの文の締めくくりをこんな言葉で終えております。


 然れども、余猶ほ安ずる能はず、愈々拡充精求して、聊か感ずる所あれば、未熟を顧ず、今茲(ここ)に無刀流の一派を開きて、以て有志に授く。

 以上記すが如く、余の剣法や、只管其技を之れ重ずるにあらざるなり、其心理の極地に悟入せん事を欲するにあるのみ。換言すれば天道の発言を極め、併せて其用法を弁ぜんことを願ふにあり、猶ほ切言すれば、見性悟道なるのみ。以下不可言。

 嗚呼諸道の修行も亦如斯耶、古人云ふ、業は勤むるに精し、勤むれば其極致に達すと、諸学人請ふ勿怠(おこたるなかれ)。

*5

では、ただひたすら努力すればいいか・・・そんなことしたら、みんな成功しています。

ということで、実は私の感想は、やっぱりいろいろな要素があって、よく分らんな〜ということ。

次回は、いろいろな要素を今一度おさらいしながら、よく分らんな〜という感想を共有できればいいと思うのですが・・・「そんな読み方だから、分らんのだ」という指摘があれば有り難く。本日はこんなところで。





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さて、2012年01月の時点で、鉄舟に関する一連のエントリーを再検討しておりますが、上に見た様に、deleteする部分が多過ぎて、なんのこっちゃよくわからなくなってしまいました。すみません。

元々の文章を書いていた2009年02月当時の私が、上にあるとおり、「実は私の感想は、やっぱりいろいろな要素があって、よく分らんな〜ということ。」と素直に書いているのは、我ながら多少はまともだったのかと、ほんのちょっと胸を撫で下ろしましたが、なんだかいかにも噓を噓と見抜けない、、、という感じがして、、、安倍の記述の何がどう白で黒なのか、どこまで脚色なのか実に実にですが・・・。そもそも、2009年時点では、山岡の伝記はこれ一冊しか読まないで、書いちゃったというのが我ながら愚かでした。今は多少とも利口になっていれば良いのですが。

冒頭の注意書きにあります研究者の論文などを読むと、山岡に関して一次資料が乏しい上に、二次資料も生データに近い出版物がいまだ無いがため、実に如何ともしがたい。のですが、事実だろう・・・と私が思っているものをおさらいしましょう。

前回のエントリーに取り上げた滴水の両刃交峰不須避の公案が、坐禅と剣術の双方に関わるものであったこと、および、その公案の解決と同じ頃に、浅利の剣術に対することができるようになったことは特に疑う必要はないと思います。『おれの師匠 山岡鉄舟正伝』も、『鉄舟居士の真面目』もそういった書き方をしているというか、公案の解決と浅利又七郎対策の完成を同時の明治13年3月30日としています。

我々現代人は、心身を別に考えるので、剣術という体の話、禅という心・思想の話、とわけてしまいがちですが、それがいけないのだと思います。そもそも、古代インド思想も、そこから生まれた仏教思想も、その辺りの解決を目指しているのは、中村元先生の

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著者: 中村 元
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や平川彰先生の

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著者: 平川 彰
出版社: 春秋社

などを読むと見えてくることかと存じます。*6

浅利又七郎に出会って弟子入りしてから、「妙理を得たり」と評価されるまでの流れは、鉄舟自らの詩文と言われているものを頼るのが一番いいのでしょうか。全文、引用致しましょう。旧字など、現代風に治しております。


学んで不成(ならざる)の理なし。不成は自ら不為(なさざる)なり。予九歳にして撃剣に志し、真影流久須美閑滴斎(しんかげりゅう くすみかんてきさい)に従い学ぶ。其後北辰一刀流井上清虎の門に入て修行し、且(かつ)諸流の壮士と試合すること其数千万のみまらず。其中間刻苦精思する凡そ二十年、然れども未だ安心の地に至るを得ず。ここに於いて鋭意進取して剣道明眼の人を四方に索むる(もとむる)に絶えて其人に遭はず。偶ま一刀流浅利又七郎と云ふ者あり、中西忠太の二男にして伊藤一刀斎の伝統を継ぎ上達の人と云ふ、予聞之喜び往て試合を乞ふ。果たして世上流行する所の剣術と大に異り、外柔にして内剛、精神を呼吸に凝して勝機を未撃に知る。真に明眼の達人と謂つべし。従是(これより)試合する毎に遠く不及(およばざる)を知る。(浅利氏は明治某年術を収めて復剣を取らず)爾来修行不怠と雖(いえども)浅利氏に勝可の方なし。故に日々剣を取て諸人と試合の後、独り浅利に対する想を為せば、浅利忽ち剣前に現じ山に対するが如し。常に不可当(あたるべからず)と為す。于時(ときまさに)明治十三年三月三十日早天寝所に於て、従前の如く浅利に対して剣を揮ふ趣を為すと雖、剣前更に浅利の幻身を不見(みず)。ここに於いて乎真に(かしんに。真だと思えるほどに、といった意味)無敵の極所を得たり乃ち(すなはち)浅利氏を招き我術の試験を受く。浅利曰く、大いに妙理を得たりと、遂に我術を開いて無刀流と号す。嗚呼諸道の修行も亦(また)如斯乎(かくのごときか)。古人曰く業は勤むるに精し(くはし)と。勤れば必ず其極に至る、諸学の人請勿怠(こふおこたるなかれ)。

 学剣労心数十年 臨機応変守愈堅。 
 一朝畳壁皆摧破 露影湛如還覚全。*7

これだけでも、あれこれ実に不思議です。

すみせません、もう一回続けます

*1:この豪商の逸話を滴水の公案と照らし合わせたという話が、おれの師匠―山岡鉄舟先生正伝鉄舟居士の真面目 (1974年)にはまったく出てこない。こんなに詳細な話なのに出てきません。なお、『おれの師匠』は古書価格が高いことが多いですが、直接島津書店に、連絡を取れば新刊が定価で手に入ると思います。私もそうやって手に入れました。

*2:浅利対策が成ったのが明治十三年三月三十日であることは、鉄舟の詩文として『おれの師匠 山岡鉄舟正伝』に全文引用されている短い文書にでてきます。ただし、deleteした部分にあるような、浅利に立ち向かう五日前に滴水の公案のなんたるかを悟り、三十日に至る五日の間に剣術の工夫をして云々には傍証がないです。
公案自体が、剣にも禅にも関わるのは疑いないものですが、そもそも、ことが心身双方に及んでいて、こっちを解決したからあっちなどとそんなにはっきりわかれるものではないのでは?確証も傍証も出ないうちは、安倍『鉄舟随感録』の記述を元にしてあれこれ考えない方が良さそうです。

*3:このような詳細な情景について、『おれの師匠 山岡鉄舟正伝』も、『鉄舟居士の真面目』に傍証がありません。

*4:鉄舟の詩文として『おれの師匠 山岡鉄舟正伝』に全文引用されている短い文書を正とするならば、鉄舟が浅利対策がなったなと納得がいったのが、明治十三年三月三十日。その後、浅利を招いて、試験を受け、「大いに妙利を得たり」と良しを貰ったのは、同日なのか後日なのか試験の内容がどうだったかも書いてありません。

*5:主旨は問題ないと想いますが、これまた傍証もない安倍の記述なので、deleteしました。

*6:2016年某日注:この頃はまだまだいまいちいまにですね。この問題にあまりに安易に本を頼りにしまっている。実際に、体も使った探求をしないといかんことでしょう。書籍を挙げるにしても、例えば、右の二冊。これらは体の状態・動きの内観経験も重ねていないと、とても読み解けない。

弓と禅 の商品写真  弓と禅
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 福村出版

不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7) の商品写真  不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
著作: 沢庵 宗彭
出版社: 徳間書店

*7:けんをまなび こころをろうする すうじゅうねん  きにのぞみ へんにおうじて まもりいよいよかたし。 いっちょうじょうへき みなさいはす ろえいたんにょとして またまったきをおぼゆ。二行目後半、露影以降の意味が何とも。・・・自分の周囲を囲っている畳や壁などがみんな粉々になってしまった、つまりすっかり身をさらけだしている・露にしているのだけど、でも大丈夫です、全きなんです。という意味かなと思って居ります。それなら、一行目と通じますし、両刃交峰不須避の公案とも通じるかと