末木文美士さんの『日本宗教史』大変刺激的でした!

2016年某日注:すみません!このエントリーで語ったことは、いまは宗教問題とは思わないです。いまなら政治的問題、ないしはテキストから考える宗教とします。テキストを元にした闘争史とかなんとかなんといいますか、、、「祭政一致」などと気安く言ってられるレベルで書いてました。その手の祭政一致はやはり政治です。このレベルでやると、宗派の差異が大きな意味を持ち、あっちかこっちかの争いになる。

心から見た場合の宗教は、平たく言えば、「落ち着かせること」が重要でそこで祭政一致につながらないことはない。

生死は「人を落ち着かせないこと」のひとつに過ぎない。取り返しがつかないが故に、大きく心をゆさぶる問題で、そこで過度に焦点があたり、俗化した「宗教」ではメインテーマになってしまった。

そこらを割り切って、一般的な政治的現れとしての宗教なり、常識的なテキスト読解での宗派の差異を知りたいなら、このエントリーで挙げた宗教史や宗教思想史は、それなりに役立つでしょう。

そうではなくて、心身知性の問題を扱ったいわば学問として考えたい場合、このブログ自体もう数年前のことでいまの私にも拙い書き物ばかりですが、とりあえず
http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20091226/1261820042
http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090204/1233680318
http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20090429/1240942422
この辺りをどうぞ。最近、最低限の注意書きをほどこしました。

宗教というとすぐ敬遠される「合理的」な方も多いのですが、宗教とはなにかと考えるに、丁度プラトンやアリストレテレスが哲学について言ったように、なにかにびっくりしてそれを知ろうと探求する活動、諸学問に分化する前の知的活動、そんなくらいに捉えておくのが良いと思います。そうすると、各種の宗教テキストを理解するに当って、いまでいう哲学だの心理学だの運動生理学だのなんだのに関係していることがすんなり読めるのではないでしょうか。

敬遠される方が嫌っているもろもろは、惑いを安易に解消しようとした所産・堕落した知性の所産である・・・そう考えてみるのが正しいように思います。そこに堕ちた団体やテキストを一旦わきにのけてみれば、宗教には、日常に役立つ、他にはないユニークかつ有意義な諸考察・諸活動がある、と見直せるのではないでしょうか。
なお、仏典は見慣れない言葉が多いので、岩波の仏教辞典はやはり保っているとなにかと楽です。本に注釈もありますが、必ずしも欲しいところになかったり、ものによってはかなり略していたりしますので、この辞典は訳に立ちます。

岩波 仏教辞典 第二版 の商品写真  岩波 仏教辞典 第二版
編集: 中村 元, 福永 光司, 田村 芳朗, 今野 達, 末木 文美士
出版社: 岩波書店

私も何年も買わずに済ませていませたが、いざ手に入れるとかなり便利になって、早く買えばよかったと残念に思ったものです。


年末に読んだ

日本宗教史 (岩波新書) の商品写真  日本宗教史 (岩波新書)
著者: 末木 文美士
出版社: 岩波書店

が、大変刺激的だったので、弊ブログにてちょっとご紹介してみようかなっと。宗教というと妙に敬遠する方が多うございますが、おかしなものに引っかからないという意味でも、ある程度いろいろ知っておくのは悪くないかも!?自分は大丈夫でも、家人が・・・ということはよくあるものであります。

さて、これはどんな本かと言いますと、著者あとがきにズバリな話がありまして、

(岩波新書執筆の話となって)なるべく概論的なものをという要求で、それならば思い切って『日本宗教史』を全体として論じてみようということになった。とはいえ、新書の範囲で、古代から現代まで相対的に扱おうというのは、あまりに無謀な話であり、その構想を友人たちに話すと、みなあきれた顔で絶句したものだった。

 もっとも、確立した成果を適切に概観するという意味での概論ではなく、これまで通常個別的に扱われてきた神仏関係を統合的に見、日本宗教の展開のダイナミズムをどのように捉えるか、というあくまで試論であるから、このような粗いスケッチも許されるであろう。

(略)

大胆な挑戦の書として読んでいただければ幸いである。

前掲書 p.241

ものすごく簡単に言ってしまうと、

  • 日本の宗教というと自分の家のやり方を簡単に思い浮かべてしまうけれど、神仏儒道に陰陽道キリスト教等々併せて、時代時代で、時には深く、時には浅く、陰に陽にと様々に影響しあってきたもので、複雑なんだなぁ・・・!!

ということが、具体的な例示たくさんによ〜く判るという書籍。方々で、細切れにそんな話は聞こえて来るものですが、こうやって一本にまとめて貰えると有り難いものです。

ここ何十年、他のさまざまな分野研究でも起きていることですが、一般に流布している説明・レッテルはおよそお粗末で、細かく見るとこんなにいろいろとややこしく、また、豊かなのです、、、という研究方法の日本宗教版。新書でこれだけの中身ってなかなかないのでは?

著者の末木文美士さんは、仏教専門の研究者の方。「だから仏教重視し過ぎだよ、この人!」と本書に感じる方もあるかも知れません。私は多少そうであっても万遍なくいろいろ取り上げていると感じました。

末木氏のまとめ方が正しいかどうかは、各自が細かに色々と読み進めて、鵜呑みにせずに確認すべきことなのでしょう。巻末の参考文献だけでなく、文中の様々な人名・書名が後学の手がかりとなります。なんにせよ、本書を読んで、「複雑なんだな〜、これはうかつなこと言えないな〜」と判ればそれで良いと思っております。

ほんの一端を示すと、戦国期にキリスト教が入ってくる前に、日本の神仏思想の内に唯一神的考えが起っていたので、それがキリスト教受容を助けたって言えるかも!なんて指摘。これは微妙に眉唾ながらも *1、「日本の宗教=多神教的」とだけ言っておけばいいと思った心に、ちょこっとトゲを刺すことにはなる。*2

著者の如き見方をするには、各宗教、各宗派を横断的に資料検討することが必要で、「学問的に分け隔てずにそう見てきますよー」という態度は勿論、「そういう研究のために資料を開示します!」ということも前提となるはず。そもそも、そんなことはいつごろ可能になったのか、、、とちょっと気になりました。「大事なものは、お見せできません、、、」というのが、基本的な態度だったはずで、どっかで変わって来たのでしょう。上の引用部に、「これまで通常個別的に扱われてきた神仏関係」とありますが、この著作も刊行は200X年。変化は最近のことなのでしょうか?

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もう一つ、大事なのは、何事も純理論的にばかり考えてもなんであって、穿った見方とも言えますが、「現実的な要請が理論の背景にある」ものなのだ、、、という視点が方々に現れていることでしょうか、、、

そういう意味では、新カント派的哲学史観のせいで、いろいろと見え難くなっている、、、とする、

反哲学史 (講談社学術文庫) の商品写真  反哲学史 (講談社学術文庫)
著者: 木田 元
出版社: 講談社

を楽しまれた方なら、この『日本宗教史』も楽しめるでしょうし、逆もまた然りと存じます。*3

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他の末木文美士氏の著作というと、わたしも偉そうなことを言えるほど読んで居りませんが、、、

日本の仏教史という枠内での似た趣向の書物であれば、

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫) の商品写真  日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)
著者: 末木 文美士
出版社: 新潮社

があり、評判も高い著作です。私も面白くて一気に読んだのを覚えて居ります。要約すると上と同じで、「仏教も複雑だね〜」となって、ひたすらいろいろな新しい名詞が頭を飛んで回ると思います。

仏教はなにを説くものなのか、思想面からアプローチしたものならば、再三このブログでも取り上げている

思想としての仏教入門 の商品写真  思想としての仏教入門
著者: 末木 文美士
出版社: トランスビュー

という名著もあり。この辺りは入り易く、読後いろいろ開けるものかなと。

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そうそう、読後気になったことで、まー当たり前のことですが、それは、宗教者の理屈と市井の人間の必要の間にいろいろ乖離があるということ。市井の人間の側のどんなwantsがどーで、それをneedsにしてどーのこーのな研究は中々聞きません。

発信側の歴史は書かれるけれど、受容側の歴史って、そんなに見たことがないです。よく言われることですが、、、歴史的には資料が乏しくとも、現状であれば、受容側の事情も調べられるし、それなりに必要かと思うけれど、どうなんでしょう。ただ、アンケート&統計になって、バイアスは掛かり易く、「生データみないと信じられません」って話になって、なかなか難しいことかも知れませんが、、、*4

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最後に。

この書籍では、歴史的に我等が先人が作り出して来た日本の宗教観・歴史観等々が、「いや、実態はそうでもなくて、、、」といろいろ崩されるわけですが、だから、「我々はインチキなんだー!だめじゃーん!」と考えるのは、それはそれでどうかなと。

国と国の競合関係は昔からあったもので、その中で、仲間意識の形成はやっぱり重要なものであって、その為に共同体的幻想だの、はたまた共同体的捏造だのを作るのもやはり訳があったことで、どこの国でもそんなことはやってきたもの。国は要らんという先には、貨幣の幻想があったりなんなりとややこしくなるので、ここで止めておきますが、、、

日本式はダメだからと、「グローバル・スタンダード」なるものが実態も確認されずに連呼されたのが先日までの姿。「日本式中華思想に過ぎない!」と言うのは兎も角、では本家のそれなら良いのですとなると、私にはさっぱり訳がわかりません。

会社なりなんなりのポジション、土地の境界線等々、卑近なことでは随分頑張るにも関わらず、話が国だ何だと大きくなると、その意地悪さがすっかり消える・・・のは、如何なものか。。。いじわるが良いというわけではなく、なんといいますか表立っては仲良くしつつも、財布の紐は固く行きましょうよ、、、とでもいったこと。

上述の書籍のような研究ができて、それを一般書として私なんぞが目にするには、それ相応の精神的自由なり、経済的な余裕なりが必要で、ではこれを維持する、、、となると、いろいろ大変なことと思います。

いつもながらのゆるゆるの長文にて失礼しました。

*1:そこら辺は「そういう考えがあった」だけでは今ひとつで、それがどの位広まっていたか考慮しないとなんとも言い難いでしょうし

*2:とは言え、「日本だって一神教があるんだよ!」と大上段に言っちゃうのは、ちょっと無茶な感じもしますし、じゃーキリスト教も一般信者の実態としてどこまで一神教なの?などと考えるとまた一概に言える話ではないでしょうし、、、

*3:さすが、ハイデガー研究者というべきか、客観、主観等々のいわば当たり前の言葉を語源から説明してくれるので、「あぁ、なんだ!」と思うこと多々。この木田元氏の著作は、早く出会えていたら、、、と感じた一冊でした。

*4:そんなら、ひたすら生のインタビュー読ませて貰った方が、良かったり、、、ブルデューの『(仮)世界の悲惨』っていつでるんだーー