以前、映像を語る会なんてものをやっているなんてちらっと書きましたが、実は毎月細々と続けていて、まー細かい話だから、ここでは書かずに居ります。貧乏な癖に、多少多めに払っていますが、まー来世には恩返しがあるだろうという密かな、かつ、過度な期待であります。*1
それで、先日は都内某所で開きましたが、そこで日本酒および料理の講釈を受けて居りました。そこの若旦那をからかって、昼間に買った新潟の酒の小瓶の話になって、何本かあって安いものだから、
「一本好きなの取ります?僕が飲んだって、いい加減なもんだから。こっちであまり手に入らないもので選んで貰ってます。」
「へーーー・・・大将〜!お客さん、これ呉れるってーーー」
それで、大将こと、店の親爺登場。高くないけれど、真面目な店で、話を聞いていて大変面白うございました。長い時間立ち話で思い返せば申し訳ない。
「ちょっと知りたいなんてね、そんな野次馬みたいなお客さんには話しませんよ、こっちだって。」
ということでしたので、その話は、まー伏せておきます。*2 個人的には、焼酎および日本酒に対する日々の疑念について、サンプルは僅かながら、プロの裏付けが取れて良かったなと。
それでも、これは一般的に良い話と思ったものを一つだけ。
日頃取材お断りらしいのですが、「ミシュラン来たの?」と突いてみたら、「名乗った連絡があって、敷居をまたがせませんでしたよ、勿論。」と。それを聞いて、毛嫌いだとか保守的と思われたら、まぁ、それでもいいと思います。話を聞けば、親爺は昨年版が出た折には、ちゃんと自分で足運んで確かめてみた由。「真面目ですねー」と冷やかしたら、「当ったり前ですよっ、そんなの!」。それで大変疑義を持ったと。
うろ覚えですが、こんなことでした。
「良いものは本当にいっぱいあるんですよ。おいそれとこれが一番いいだなんて、言えるもんじゃないですよ。どこにでも行って、何でも食べてみてね、それで自分の感性を大事にしないといけません。ガイドだの、雑誌だので、頭でっかちになっては駄目ですよ。あーゆーものに頼るのは不真面目ですよ。それに、素朴なものを味わえないで、料理云々なんてないですよ。プロはね、お互い怖いから言わないですよ、面倒ですし。それぞれ自分なりにいいとか悪いとか思っている・・・寿司屋行ったってね、今日のネタに自信がないとね、『貴方には、炙ってだしますよ』って、そうなるんです。変なことをいいますけれど、お母さんの料理が旨いと思ったら、そこから大事にしないといけませんよ。それが原点なんですから。それがね、教育ですよ、歴史ですよ。私もね、酒蔵でもなんでも、日本中よく歩いて、なんでも食べて来ます。ほんとにね、いろんなところにいろんないいものがあるんです。ブランドとか、値段とかね、名産地ですとかね、くだらないですよ。」
聞いていて、本業の姿勢について、再確認できました。ここのブログの姿勢も同じことです。
とっかかりの情報というものは、絶対にあるべきだと思います。不安な人の背中をちょっと押したり、頭の片隅に入れといてねとしてみたり。そういったことは、私自身有り難いと思ったことがありましたし、今後もあるでしょう。でも、閉じてしまう様な情報は駄目。いや、これは情報の受取り手の問題でもありますが、私も受け手として怠惰じゃいかんよな、、、とつくづく思いました。
今までそういうつもりで書いてきましたが、そう受け取って貰えていたら有り難いです。もし、いままでそう感じ取れなかったのだとしたら、それは私の中に私が気づいていない卑しさがあるということでしょう。
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「聞いた?親爺さん、偉いね。感心しましたよ。でも、似てるねー」
「えっ?」
「だって、やってること一緒でしょ?日頃の話を聞いていると。」
「、、、そーですかー、やだなぁぁ、、、、、、」
「・・・でもさ、やれなんて言わないでしょ、お父さん。あの感じだと。」
「全然。・・・・・・やれっていってね、やらないですよ。僕は反抗的ですし。でも、見てれば判ります。なにをやれって言っているのかは。」
「やってるかやってないかは、日頃の話、聞けば判るもんね。」
「見透かされますよ。でも、そうやって何とかなるんじゃないかって思います、自分なりに。」
会社なんかでも、よくあるやり方でしょうが、これだって、指示を出した責任をとりたくないとか、自分の仕事をなし崩しに押し付けたいとか、ろくでもない使い方をする輩もうんざりする程いる。コーチングを受けて、「みんなに考えさせるんだ」と言いながら、実質、決断を放棄しているだけなんてのは、幾らでも居るんじゃないでしょうか?何事も使い手次第ということなのでしょう。
信頼すべき相手か、採用してもいい内容かは、そこはやっぱり受取り手がきちんと判断しないといけない。教える方も、受け取る方も、共にきちんとしてないとどうしようもない。そう考えると、実に些細なことでさえ、重要になってくる。
息子さんである若旦那。その一本を選ぶのに、随分時間を掛けていました。
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親爺さんから、教育、歴史なんて言葉が出たのは、これは結構重要なことかと思います。そういう広がりをもって仕事をしているな、とそんなことを考えました。私はなんといっても食道楽だけはなしにしたいので、その小料理屋の価値は知りません。人に教えてもらって、店の雰囲気が好きなだけ。
何となく思ったのは、親爺さんは、言ってみれば、この仕事、このもてなしが、なにかもっと大きな価値をもって世界に通じているんだと、言葉にするとそんな気恥ずかしい考えをどっかで持っているのではないか?これは果たして大袈裟な考えなのかどうか?
件の会の参加者は、私よりも若い方若干名ですが、いろいろと妥協や処世は必要であっても、そんな信条はあるべきだろう、、、なんて話をしたくて、そんな店かなと場所を選んだのが底意。想定より大きな収穫でした。
そういう気概とか、信条とか、なんだかわからないものは、言ってみても駄目なものと思います。ポジティブなことを言ってみようと、前向きに振る舞ってみようと、そんな公の宣言は差し置いて、その姿をみていれば判ってしまう。最近、そんなうわべの振る舞いが増えたように見えて、どうかと思います。私の判断が、合っているのかどうかは、もうなんともですが。
こういうエントリーそのものが、果たしてそんな演技に過ぎないのか。見る人が見れば、愚拙のあさましさなんて、見えてしまう、そう思います。