クリスマスも近づきました。独り身の救世主せるげーです。
この時期、闇雲に相手を確保して、生殖行為に励むのも虚しゅうございます。明日より、クリスマスから年末年始に掛けて、一人でも有意義に過ごせるよっ、エントリーを書きますので、ぜひご参考にっ。独りの歓びを味わおうではありませんか!なぜならば!!
孤独な人間であればこそ、誰かに向かい合えた時にその歓びを知ることができるのだから
・・・思いつきで、書いてみました。ほんとかどーかは知りません。とゆーか、読んだそばから胡散臭い言葉ですが、、、色付きで斜めなのも自分で書いておきながら胡散臭い。。。現実は、話を親身に聞いてくれた人間が、詐欺だの、勧誘だのということも多いですから、集団にあって我を忘れないことが重要ということでしょうか。没我のつもりで、相手の意思をすっかり受け入れているようではなんとやら・・・それでは我の中身が入れ替わっただけであります。*1
さて、今日はキリスト教ネタというわけでもなく、私の通っていたカトリック校の思い出話を一つ。
ちょっと前置きが長くなりますが、私は耶蘇教徒ではなく、我が家もいい加減なもんで、幼稚園の頃から、プロテスタント、カトリック、単なる無宗教公立・私立などいろいろ行って、最初の仕事は「その流れならイスラムだよねー。砂漠も見たいしー。」なんて選び方だったり。日本の所謂神仏学校は無縁でしたが、それは自宅でやるからいーということなのでしょう、、、なーんて言いながら、幼少時、座禅に連れてかれたり、、、
自分自身に信仰があるとすれば、
- ご先祖様が神様だ。頼りになんないけど!
- 万物に御霊が宿る、で、いーでしょ
- 困った時は、神頼み、、、もほどほどに!*2
で十分な人間です。それ以上要求されても、「なに狙ってんの?」としか思いませんので、悪しからず。
幼少時、家に神父さんが遊びに来ることもよくあったけれど、家の雰囲気は「あれも一つの宗教。話を聞くのは悪くはない。」というもの。中高の時は、生意気なので宗教の時間に前もって聖書を読んでは、今から思えばスピノザを稚拙にしたようないぢわる質問*3ばかりして困らせたり・・・。「ヨハネとルカでこれこれこう記述が違うのは、クリティカルな問題じゃないのか?」とかなんとか。私の学校の神父さんも純朴な人が多いからか、結構、答えに窮していました。私も子供でありました。17、8世紀あたりまでの欧州なら、始末されていたでしょう。。。
さてさて、そんないじわる質問は、聖書を元ネタに神父さんが一席打つ宗教の時間という授業があったからできたのですが、これが普段考えない話、普通の教科では出てこない話ができてそれなりに面白い。神父さんが、自負心を問題にすれば、こちらはプラトンのなになにを引用して、「プライドでも何でも、バカと鋏は使いよう」とやり返したり。
そんなある日の宗教の時間(← 漸く本題)、神父様の出したお題が、「愛すること、愛されること、愛し愛されること。その中のどれを自分は好むか各自理由も考えて、議論しましょう」というものでした。
さて、これがなんでタイトルの 小利口な答え につながるか?
クラスが四十余名として、その三択にどう別れたか数字を出せば判り易い話です。
- 愛すること:数名
- 愛されること:1名
- 愛し愛されること:残りのほぼ40名
こんなインチキ臭いことあるかっっっ!!!てなものでした。早合点かも知れません。私も今でもよくそれをやります。その疑いは残して置きますが、何にせよ「頭で小賢しく考えやがって、東京のガキってのは、日和見めっ」て感じました。
そんな問題を考えることも普通はない、そこそこに恵まれた15,6の子供が、別に正答も何もないし、成績にだって差し障りもないこの授業で、なんでそういう小利口なことをするんだ、、、というのが、実に気持ち悪かった。価値観を頭でさらっと出すのは不潔と感じたわけですが、今だってそう思っているのでしょう。きっと。
そんでもって、愛されるを選んだ1名(誇張ではないですよ。ほんとに一人。)は、どう答えたか? 要旨はこんなものでした。その後、よくこの話をしてきたので、多少の粉飾と共によく覚えているわけであります。
「愛し愛されるのは理想的ですが、お互いカードめくったら同じ札だったということも、そうないでしょう。愛してみて、ないしは、愛されてみて、やり取りがあって、それでお互いそれぞれ本物かどうか判るものでしょう?それだって、本物かどうか、そうそう判るものではない。自分だって、後から本物でないと気づくかも知れない。どっかの歌にもありましたが、自分から無償の愛を差し出すのは、立派な行いで、理想的なのは確かでしょう。それは頭では判りますが、難しいことだと思う。その点、愛されるのは、楽な話です。その上で、きちっと愛情を返すことだって難しいけれど、でも、まず愛されるのであれば、遥かに楽だと思う。どの立場を好むか、、、「どれが好き?」って質問であれば、楽なので、愛されることを選びます。」
「楽だからそれを選ぶの?」
「実践的に、その場その場で何を選ぶかは知りません。ただ、こういう質問を受けたら、一番楽なのものを選んで置きたいだけです。この場だけの答えであっても、難しい道を選べるほど、自分が偉いとは思っていません。愛し愛されるの他に、愛されて愛すという選択肢があれば、それは選べたかも知れません。」
・・・という子供丸出しのひねた理想論に、神父はにこやかにしていただけだから、自分はこういう人間になったのだと、他人に責任をなすりつけるのでした。呑気な学校でした。
いじょう
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聖書は、ちょっとした(&まともな)教会に行けば、手に入りましょうから。副読本をご紹介。
特に旧約聖書読解に。
ユダヤ古代誌〈1〉旧約時代篇(1−4巻) (ちくま学芸文庫)
著者: フラウィウス・ヨセフス
出版社: 筑摩書房
ヨセフスの個人的見解なのか、ユダヤ社会では常識なのか知りませんが、普通に聖書だけ読んでるとなにかあやしげで神秘的で魅惑されるところなどが、あっさり解説されていたり。そんなの読むと、単なる一部族の儀式だな〜とつくづく感じますね。
キリストの時代の史書として。
ユダヤ戦記〈1〉 (ちくま学芸文庫)
著者: フラウィウス・ヨセフス
出版社: 筑摩書房
当時のユダヤの一知識人の書いたものとして、面白いものでした。他民族には随分だねーと思いますが、まぁ、生き残った民族なんてみんなそんなもんなのでしょう。多分。目くじら立てても詮無いことでしょうか。
文語訳というものに、ちょっと興味がある方も居られましょう、
私もギリシャ語やら読める訳ではなく、聖書学者でもなく、まったく門外漢ですが、さすがに訳語や元テキストの問題があるそうで、その前に、この文語自体がちょっといま一つ。これは読めばすぐにピンと来るかなと。同人誌に聖書の引用などしたい場合、これを参考に、自分で文語のいい表現ねった方が良いかも。まったく信仰と離れていますが。
かちっとした言葉を求めるなら、むしろ、ジェームズ王の欽定訳でも読んでいた方が、雰囲気あるかも
http://quod.lib.umich.edu/k/kjv/ ← e-text版。全部これで読むのはキツいです。
Holy Bible: King James Version, Giant Print, Burgundy, Imitation Leather, Presentation Edition
出版社: Oxford Univ Pr
ここ10年来といっていいのかな?さまざまな外典の翻訳も手に入り易くなっていますし。物語作る人など、聖書知識は当たり前だから、もうこっちも読まないとネタにキレがないとか、、、
旧約聖書外典(上) (講談社文芸文庫)
編: 関根 正雄 第一マカベア書, ユデト書, トビト書, 三人の近衛兵, ベン・シラ(集会書)を収録
出版社: 講談社
新約聖書外典 (講談社文芸文庫)
編: 荒井 献 古代におけるキリスト教大衆文学とグノーシス的異端文学の間に位置する聖典外のアポクリファ。芸術作品のモチーフなどにはこちらの理解も重要です。
出版社: 講談社
イスラムについても、この関連の興味から入ってもよろしいかもしれません。
コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)
訳: 井筒 俊彦
出版社: 岩波書店
ハディース〈1〉イスラーム伝承集成 (中公文庫)
訳: 牧野 信也
出版社: 中央公論社
マリアがなんで処女懐胎するか、、、「そんなもの、全能の神の御業だから当たり前でしょう」には、潔いなぁと関心しました。
・・・という次第で、思い出話の序でと見せかけて、耶蘇教徒はなにを言っているのか、ちょっと見てみると面白いかも!?というコーナーでした。*4
では!
*1:そもそも、日頃の読者に独り者は居らないですが、、、
*2:いざと言うとき、頼み事をするなら、普段から、神棚・墓掃除よろしくっっっ
*3:ご参照。神学・政治論 上巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫)
著者: スピノザ
出版社: 岩波書店神学・政治論 下巻―聖書の批判と言論の自由 (岩波文庫)
著者: スピノザ
出版社: 岩波書店
*4:こういうことを通過しておけば、怪しげな団体に引っかかることはないわけでございまして、、、よって、キリスト経に限らず、メジャーな教典は読んでおくといいかなと。中身の紹介が薄いですが、本読みならば、上の書名や選び方にピンと来るでしょうし、「なんだろ???」と思ったら、書店で書見するのが一番と思います。既にいろいろお読みの方には、弊ブログはちょろい内容ですし。
一神教とそうでないものの差はなにか?と日本の浄土宗や禅宗等々と並べて考えても面白い。