機を見て敏に ー 小平邦彦『怠け数学者の記』を再度おすすめ致します

2008年11月28日注:このエントリーは、かなり含みありな話です。

皆様、もうご覧になったことでしょう、先日の産経コラムから、なんだか方向性の転換が伺えるうめだ某氏のエントリー

ttp://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1 ← h を抜いてあります。

コメント、ブックマーク、有名書評ブログなどの反応が中々面白うございました。*1

梅田氏の推薦文では明確ではないものの、水村女史は旧制の教育を理想とするものと予想。方々調べれば、要約記事があって、

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm

間違いなかろうと思われます。

かくなればっっっ

怠け数学者の記 (岩波現代文庫) の商品写真  怠け数学者の記 (岩波現代文庫)
著者: 小平邦彦
出版社: 岩波書店

にご興味のないはずがない!!べんべん!( ← 講談風)

この書籍、唯一の人気記事で強く推薦したつもりでしたが、これがまた、売れない売れない。。。

抑も英語学習は小奇麗な発音で悦に浸る為でも、異国人の走狗に成る為でも、断じて是等には非ず!此の根源的なる主張が、愚生の非力と無益な長文の為に読者諸兄に伝わる事不相成。数多の how to講座の一つと随したかぁぁぁと、頬を伝う悔し涙が滝の如く流れ流れた・・・わけはアリマセンが、なぜ、この小平邦彦『怠け数学者の記』を薦めるのか、意図的に明確に書かなかったので、ここで一つ。

小平邦彦氏は、戦後の頭脳流出組で、北米はプリンストン大学で勇躍された方ですが、英語が自ら呆れるほどにできず、それが故に周囲にかわいがられるほどだった由。このエッセイ集 兼 手紙抄にもそんな御様子が書かれてあって、これがあくまで英語に関してならば、我々が日々思い、感じるような、素朴なもので、微笑ましいといっては失礼ですが、勇気づけられることが多々あろうかと考えておりました。

「英語は発音とか文法とかは問題でなく、ただしゃべるかしゃべらないかの心臓の問題です」と奥方に書き送ることもあれば、会話ができずとも仕事ができればいいんだといった開き直りがそこかしこに見られたり。その卑屈にならず、格好つけようとも思わず、単なる道具として必要なだけ英語とつきあう姿が、良い参考になると思った次第。

いま一つ大事なことは、収録された『原則を忘れた初等・中等教育』その他の教育論。これなど旧制と新制それぞれの教科と時間割りを並べて詳細に斯くあれかしを検討しており、大変興味深いものです。数学一教科に絞っての新旧学習内容の変遷を扱ったエッセイもありますが、“ なんでもかんでも早い内に詰め込めばいい ”− これが英語に限らない戦後の新制度の悪い癖と想像されます。

梅田氏の推薦する水村女史の近著に、旧制の教育についてどこまで詳述されているのか未確認ながら、上の小平氏の教育論は併せて読めば、益するところ大。そう、あたりを付けて居ります。

明治の大学生の語学専門教育が、そもそも会話も作文も今の要求レベルを随分と超えていた様子は方々に伺えますが、水村女史が言及する二葉亭四迷で挙げるならば、

二葉亭四迷伝 (講談社文芸文庫) の商品写真  二葉亭四迷伝 (講談社文芸文庫)
著者: 中村 光夫
出版社: 講談社

宜しければ、こちらもぜひ。これを読んで後、四迷は勿論、この頃の子規なり、鏡花なり、あれもこれもと読み進めたく思うこと必至であります。その際は、旧仮名遣いの古本で当たられんことを。現代仮名か旧仮名かで、経験がまったく異なるものです。二十頁も読めば慣れます。

こういったことは、大学だけの話ではなくて、私の母校の中学・高校も明治の頃ならば、会話はフランス語だけが許されたそうで、生徒の喧嘩がフランス語になったことも度々だった由。では、卒業生の日本語があやしかったかと問えば、当時の文集なり、卒業生の文章を見て、そんなことは到底申せません。実のところ、国語教育も、外国語教育も現在の水準が低いだけのごく簡単な話と思って居ります。マス教育故にそうなったかどうか。その話まで絡めるとややこしい問題ですし、そこは何とも。

一般の国語力の高さは、日露戦争の一平卒の手記などを漁っても、いろいろと想像できることでしょう。

大きな市場に打って出るという経済的事情からも、手続きの諸般の手間を省くにも、日本語ではなく最初から英語で勝負する方が楽だ。こんな損得そろばん勘定が国語の危機なのですが、そんなことで国語を譲りわたすような話なんでしょうか?

そんなものやせ我慢と、意地と、意固地と、近代文学なんぞに限らず古来からの母国の語のさまざまな文章を読んで魅力を知れば、どうとでもなるもんじゃないだろうか。フランス人だ、ドイツ人だも、そうしているわけですし。文化なり、伝統を守るのは、そういうものでしかなく、なにも語学だけのことではない。地方色でもなんでもそうで、無味乾燥に変えられた地名を元に戻せと言いたい気にもなります。*2

一点。上述の水村女史の記事の末尾に

とありますが、業務上の丁々発止の議論なり、文芸作品ではない業務上の論文作成程度であれば、高校なり、大学からでも十分に間に合うものではありますまいか。大学にでも、一年ほど掛けて国内で集中的に英語を学ばせるコースがあるかと言えば、左に非ず。土地代なり人件費なりを考えれば致し方なくはあっても、バカっ高い授業料の民間施設があるのみ。その程度の能力を何故いまだ自力で試行錯誤して大枚はたいて身につけねばならないのか、今ひとつ判りません。作文などどうしてよいものやら。

どの程度の割合の人間がどの程度の英語力をもつべきかを考えれば、いろいろ方策はあろうかと。

*1:当ったり前の問題を、パロディ作家が今更初めて見いだしたことのように本に唱い上げ、日頃のおすすめもなんだかななビジネスマンが「日本人全員 1,890円はらって、読め」と言えば、そりゃ反響も大きいと思います。

*2:馬鹿げた話、恵方巻が流行っても、「そんなのウチの習慣じゃない」とそっぽを向く意地といった程度のことで。。。「でも、つい買っちゃった」ってのは、別になんの支障もないもので。