なんとなく濁さずに、ふつーに話して、妥協点を見つけるというごく簡単な・・・

公私を問わず、なんとなく濁したりせず、ふつーに話して、妥協点を見つけるというスタイルだけど、、、自分自身はそーしているつもりだけれど、これが相手のある話だから、中々難しい。

女の子がそーいった婉曲的お断りをする場合は、よくあること。その場合は、「こっちからも願い下げだよ〜」なのれ、「ハイ、次〜!」でいーんだけど、さきほど勤め人時代の男子もそーなんだなぁ・・・な事例を思い出したので、こんなエントリーを書いている。。。←から、かなり独り言系

色事の付き合いと違って、「はい、さよなら〜」とならない物理的制約があるだけにめんどくさいのだ、、、

せがーびきさんの漫画にもこんな話は山ほどあって、余裕の態度で漫画にしているからほんと偉いなぁと感心しているけれど、あの人の中にうんざりが山積みになっているんだな〜と、なんとなく見ていて痛々しい気もする(と書くと、ナイーヴすぎるけど、うまい表現が見つからない)。ので、実はあまり訪問しないようにしている。「そうそう、あるある」と星を押すだけの話じゃないんだな、あれは、、、*1

都合が悪いと押し黙る、というのは、反転すれば、言いまくってやりこめるといったものと一緒で、結局は根底の価値観まで見れば、一つかなと。

よい価値観は、「あなたはあなた、わたしはわたし。当面、デュオをしないといけないけれど、ではどうやりましょうか?」・・・なんて書くと簡単だけど、これだって内実は読み手で多様になる。自分なら、「どうすればお互いhappyに」なるか、「デュオの演奏はお客さんに楽しいものなのか?」って話しかと思うけれど、人によっては、「わたしはわたし」の追求に専念したり、「演奏したという結果があればいい」となったりする(やむなく、結果だけつくるのが、次善の策ということはあるけれど)。

実質的な協調性というものは、良い共演と一緒で、奏者Aも奏者Bも個性が出ているけれど、そのデュオには一体となった楽しさがある、、、ってもんだと思うけれど、それこそ共演者にうやうやしくお愛想しているだけで「協調性」となることが多い。

仲の良い旧友連は、この手の価値観を公私一貫させようと意識する、ないしは、一貫していない場合も「いま一貫していなぞ〜」or「(後から)あれは、一貫してなかったの〜」と自覚はしている連中で、自覚がきちっとできていれば、普通自分自身気持ち悪いから直そうとする、だから親しくなれる。「わたしはわたし」という人はなんというか、、、ほんと素朴な本能的利害で生きてるんだろーなーと。嘆息する他なかったり。きっときちっと自覚しないで、てきとーに忘れたり、見ないふりしてんだろうなと予想する。そんでもって、そういう忘れたフリ、見ないフリって、実は自分で「これはよろしくない」と、はっきりわかっていることで、それでなんか明るくないねーって性格になるんだろうなと。

なんだろう、多分、自分の利害をどこらへんに設置して置くかとか、自分の核と周辺をどこまで認識しているかとか、そんなことを直せば、どーにかなるのかと思うんだけど、すっごい平たく言えば、「実印と通帳渡さない限り、実質的被害なんてないだろ〜」ってことかなと。なんか余りに平たくて、物質的でなんですが。

話が変わるようだけど、海外営業で楽だったのは、外人って本音と建前が割合きっちりしているかなと。「こっから先は入っちゃだめだけど、ここまででなんかしよーよ」というのが見える。無論、損得を争うので、いろいろ見せ方はあって騙し騙されだけど、ぐずぐず、、、ずるずる・・・胡散無償というのは、あんまない。

そーゆーことも、いろいろ背後の価値観を考えると、いろいろ思うところはあるけれど、それをうまく書けるほど、利口でないのでここらで終了。

・・・無論、「自分は無謬」でなく、自戒をこめての話であります。←って、書かないと、なんとなく印象が悪いから書くわけですが、それも、まー、なんですなぁ

*1:いまのところ、どう考えても、その類の人とは接触しないほか、解決策が見当たらない。