A = A にならない日常の言葉・・・とか言ったら大げさな話

ふと思い出した。もう20年も前。いつもの通学電車がいつもの川の上を通る。

そこの母子連れの子供が「お母さん、川が奇麗だね!」とはしゃぐ。親御さんの方はその汚い川を見てなんとも答えかねている様子。

子供が喜んだのは多分、水面で反射する朝日の光のこと。それは朝の透明な光を受けて、もっとも輝かしくなる時間帯で、自分はいつもそこには感心していたので、子供も大方そうだろうと推察した。

「川が奇麗だね」という誰も取り違えようのなさそうな言葉が、人に依ってちょいちょいと意味を変えてしまって伝わらない。

正確に表現しないからいけない・・・と思うやも知れない。そう言ってしまえばそうなのだけれど、実際それは気にしていても難しい。話し手と受け手で双方で気にしないと結構どうしようもない。子供の表現が不正確だったとして、親の方が「どこが奇麗なのかな〜?」とやさしく聞いてみたら、もっと誤解のない表現になったのかも、、、なんて想像する。

・・・にもかかわらず、結構、「私は100%論理的です」なんて方々が、、、いや、自分だってこれは通じるだろうなんて思いこみでどつぼにはまったり、、、それはこうでしょ?と思い込んでどつぼにはまったり、、、*1

そんなこんなで、「必ず通じる」とか、「原理的に理解不可能だ」とか、そんな固いこと言わないで、「通じてないかも知れない、うーん、どーしよ〜、こ〜しよっかなー」&「うーん、こんなこといってるのかな〜、どうかな〜、こーなの???」くらいな態度でいーんじゃない主義者である私。って、当たり前だけど・・・ね!!

ヴィトゲンシュタインが発想の転機になったという出来事。

普遍文法とでもいったものを考えていた当時のヴィトゲンシュタイン。同じ電車で話を聞いていたスラッファがあごひげをゆっくりとなであげる。

「なにそれ???」

これはスラッファの故郷のナポリで「とんまっ!」を意味する仕草とのこと。これだけでピンと来たヴィトゲンシュタインもすごいし、「これで判るでしょ?」とひげだけなぜて見せたスラッファもすごい。わざとゆっくりなぜる、というところにも意味がある。

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結構、馬鹿にならないのが、「水面にはねる朝日の光が奇麗」− これも合っているのか合ってないのか不確かなものですが、一応合っているとして − を「川が奇麗」とstateしたところから壮大な体系が始まって、とんでもない代物が出来上がって、元をただすと、「そんなのなりたたないじゃん」ってお話が多々あることで、また世の中、そういう意味の取り違えを敢えて利用して、茶番劇を大悲劇にしてしまう輩もある。本人に取っては痛快活劇なんだろう、、、だから、皆々は単なるエキストラなのか。。。

あんまり問いただすのもあんまり宜しくないし、それで泥仕合に持ち込もうって人も居るので、ほんと加減が難しいものながら、ときどき「それってこういう意味?」なんて聞かないといけないかな〜などとゆる〜く思ったりする。*2

*1:その子供に、「その川はきれいじゃない、お前ぜんぜんダメ」と親が言ったら、ひどい話だけれど、普段そういう返答をする癖のある人は結構居るもの。あんまり丁寧にやるのがめんどくさくて付き合い切れないのかも知れないが、当人は周りの慮りに甘えて、全然批判意識が自分に向かないってことはあると思う。自省も含めての話です。

*2:特に数式抜き、調査数字抜きで、言葉で“誰にでもわかる!”なんて唱っている経済(学)関連の本。そんななんちゃって本でないちゃんとしたものでも、杉本栄一が岩波文庫で出している概論なんて、言葉だけ読んで理解できるわけがない。