ありがちな批判の形式:非文学的日本古典案内 その6 オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』 and/or 『日本の弓術』 つづき

このネタ引き続き。

ちなみに、

 第一回 http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20091226/1261820042
 第二回 http://d.hatena.ne.jp/sergejO/20100109/1262983759

弓と禅 の商品写真  弓と禅
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 福村出版

2016某日注:いまごろ振り返るとこの頃はまだまだですね。
『弓と禅』には新訳もでましたけれど私は中身を見ていません。

新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)  の商品写真  新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)
著者: オイゲン・ヘリゲル 翻訳: 魚住 孝至
出版社: 角川書店

『弓と禅』をじっくり読むと、オカルトなのかそうでないのかなかなか不思議です。『弓と禅』の自注にてヘリゲルは、ロマン派の小説家クライストの『マリオネット劇場について』に類似性があると言及しています。その邦訳はこちらに収録。

チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)  の商品写真  チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)
著者: H・V・クライスト 翻訳: 種村 季弘
出版社: 河出書房新社

ダンサーやヨガ、格闘技などやられる方なら興味深い体の動かし方の一考察で*1、これと類似性を見ているのならば、ヘリゲルは体の体感・内観に繊細で、その目で阿波範士とのやり取りを想起していることになる。それはオカルトの目では書けないことと思います。

ヘリゲルはオカルト風に謎掛け - 公案 - をここで出しているのではないか、、、。だから矛盾も放っておくのではないか・・・そう考えても良いのでは、と思ってしまうのですが、いざそう
考えると、他著作・・・例えば

禅の道 (講談社学術文庫) の商品写真  禅の道 (講談社学術文庫)
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 講談社

のヘリゲルが神秘主義のより正しい形態として禅を語っていることで、神やら一者やらとの合一がどうこうとなんだかよくわからんです。揺れ動く段階にあった、と思うべきではなのか。

自分で自分を変えることを学ぶので、他人に教わってもなんです。だから謎掛けも悪か無い。ヘリゲルと沢庵あたりを

不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7) の商品写真  不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
著作: 沢庵 宗彭
出版社: 徳間書店

追っかけて、自分の体を動かしたり、静かに観察したり、坐禅したりでいろいろやってみるにしくはないですね。自分で見つける訓練なんだし・・・

・・・というところまでヒントを出せば十分ではないか・・・無門関、、、無門関はどうかな、わたしも全部は到底よくわからない、、、洞山五頌をどこかで探してご覧下さいませ。書き下し文と注釈は読んでも、日本語訳は大概いまいちなので惑わされない様に。内観・内省を忘れず、自分でいろいろやったり読んだりが大事です。「自分で」というのがまた難儀だったりします。誰しも自分でできてるところだけ見たり、他人と比べたりしているのになかなか気付き難い。いま気付けているところしか見えないのをどうしよう、これが問題。

読書もそうですけれど、他人の意見がなんだか良さそうだと、実感がないのに判った気になったり、またはその言葉に足をすくわれて観察がおろそかになったりと、囚われることが多い。「そんなもの当たり前だ」と言いたくなる利口な方もいるでしょう。が、そう思ってしまう人に気付きにくい壁がありやしないか。「うん、そうなんだよね」と思うのと、「当たり前なこと言うな!」では心の状態が違いますが、それはどうしてそうなるのか・・・

今回は、この書籍の批判論文を取り上げます。自分の日頃の過ちに気付けるなかなか良い題材。もとは英語論文です。

http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/publications/jjrs/pdf/586.pdf

この論文の著者は、ヘリゲルや阿波範士の言わばエキセントリックな人格が問題であった・・・と考えていて、それが為に、批判がすっかり失敗している・・・などと言ってもさっぱりなので、のんびり行きましょう。

ヘリゲルも阿波範士もオカルト好きではありそうなので、そういいたくなるのも無理はないのですけれど・・・

*2

この論文を書くにあたってさまざま資料を調べられた労力は大変なもので、これはまことに敬服すべきことです。また、判りやすい記述はなかなか世間にないもので、そのお陰で小論の骨子が簡単に漏れなく掴めるのも誠にありがたいことです。はっきり書いてあるというだけで、大変貴重なことで、世間には自分が批判を返されない様に、あやふやに書く批判者が多いものです。この論文の筆者山田氏の堂々たる態度は、冗談抜きに素晴らしいのです。

さて、山田氏の批判点ですが、大きくは下記の6点が挙げられましょう。

  1. この書籍の著者ヘリゲルは新カント派の学者だったけれども、禅に興味もちはじめた頃には、神秘主義エックハルトにも興味をもつようになっていた
  2. ヘリゲルが禅に興味持った切っ掛けについて、日本滞在中に地震にあった際、ヘリゲルの周りではお坊さんだけが動揺しなかったからとのエピソードあり
  3. 阿波範士は、スピリチュアルな経験をしていたエキセントリックな男。その種スピリチュアルな話になると、爆発的におしゃべりするという奇妙な男であった
  4. 阿波範士は禅だ禅だと言いながら、禅の修行をしていない
  5. ヘリゲルは日本語ができなかったので、通訳が居ない時には、阿波範士の発言を勘違いしている可能性が高い。 また通訳の一人 小町谷氏は、阿波範士の発言が日本人にも意味が取りにくく、翻訳に苦労したと言っている。

  6. 闇夜に阿波範士が弓を射って的を当てたエピソード。この時には、通訳さえ居なかった。また、阿波範士は最初に射った矢を二本目の矢が当てたことについて、後で別の人に回想して、「あれは偶然。あんなこと見せるつもりはなかった。」 と言った由

弊ブログの読者には、いわずもがなになりますが、簡単にコメントすれば、

1-4については、平たく言えば、「ヘリゲルも阿波範士も似非宗教じみていてうさんくさい」と言っているのであって、『弓と禅(日本の弓術)』の中でヘリゲルが書き表している難問の解決にはまったくなっていない。*3

5について、これは中々よい指摘です。ですが、わたしは、ヘリゲルが通訳間違い・勘違いから考えてしまったとしても、西洋哲学と日本の武術との二つの相異なる説明方式がぶつかってできる難問を他に類書がないほどきちんと表していると思います。この本を読んだ際に感じる難しさをきちんと解決するのが重要で、インチキだ、オカルトだとレッテルを貼って、読むに価せずとするのは、乱暴に過ぎるのではないでしょうか?

論文の著者は、「それが射る」とヘリゲルがドイツ語で記述した部分で、阿波範士は「それです」と言っていたはずだとします。ですが、例えば、補助線として、

i) 阿波範士がSV構文に吊られて言い間違えた

ii)阿波範士が敢えてSV構文で話すつもりで、実体を指定するつもりのない“それ”をやむなく使った

としても大してかわりはしないのでは?そもそも、他の部分で、阿波範士は「それです」と実際に言っている。ヘリゲルが「それが射る」としたのは間違いだとしてもよいですが、そんなことをやいのやいの指摘しても、阿波範士が「それです」と表現することの説明にはなっていない。*4

6について、これも良い指摘です。というのは、この部分の阿波範士の発言は本書でもっとも意味がつかめない部分だからです。ただ、何故ヘリゲルが、この時、阿波範士が二本矢を放った結果を見て、心変わりしたのかについての説明にはなっていない。また、この書籍の他の部分のさまざまな難問は解決されていません。*5

以上、この論文の批判点は、「この書籍にはあやしいところがあるかもしれない」と予測させるものではあります、しかし、「この書籍はあやしいから読むのをやめよう」としてしまわないか?わたしはそんな懸念を持っております。山田氏は、『弓と禅(日本の弓術)』が妙な書き方でわけわからんので、オカルト風の無価値な書籍として縁を切りたい・・・と思ってしまっていやしないだろうか。

ヘリゲル『弓と禅』を読むにあたって、違う方法を取るならば、例えば、

  • この書籍は、間違いもあるかも知れないけれど、なにかを真面目に記述した書籍である・・・とまずはきちんと読み始める
  • そして、ヘリゲルも阿波範士も同じことを違う方向から説明しているだけなのに、なぜこれほど食い違っているように見えるのか、二人が満足するもっと良い説明方法はないか考える

という読み方ではないか?これは私の読み方であり、私のオススメの方法です。

批判論文の著者山田氏は、論文の初めには、禅と武術の云々は戦後に広まったと書きます。そして、禅と弓を重ね合わせた阿波範士もヘリゲルは、大変エキセントリックな人物だと指摘。しかし、論文末尾で、禅と武術を云々するのは日本では何百年もの伝統的だとして締めくくる。

ここに生じている混乱は、さてなんでしょう?

ヘリゲルが書き記した日本的思考法・日本的言葉の説明は、実に日本人自身がよくやるものではないでしょうか?根っこは間違っていなくても、表面的な表現方法で間違えてしまっていると考えるのは大事なこと、と言って置きましょう。

そんな一例を体験して頂くとすれば、柳生宗矩の話などなかなか良い例題と思います。幾つか細部の違うパターンで伝わっていると思いますが、私の知っている形ですと、*6

ある旗本が「剣術を教えてください」と柳生宗矩の元にやってくる。では木刀もって、と柳生は相対してみる。しばらくして、「あなた、 ほんとは剣術習っていたでしょ?」「いえ、全然」「そんなの信じられません。ほんとうのこと言ってください。」「いや、ほんとに全然」「しかし、あなたには動揺がない」「あたしは、常日頃 から武士はいつでも死ねないといけないと、そればっかりは心に銘じてまいったのです」「それができれば良いのです」と免状を渡した。

という話。不思議な話ですが、不思議さを解読するには例えば、以下を問うてみてはよいのでは・・・と思うのです。

  • 柳生宗矩は、その旗本になにをして、そして、旗本がなにをなさなかったから、動揺がないと思ったのですか?
  • 剣術稽古を今まで何もしていないずぶの素人のこの旗本は、実際に試合をしたら、大概の剣豪を倒せるくらい強かったのでしょうか?
  • いつでも死ねる心構えは、剣術の出来不出来とまったくイコールなのでしょうか?涅槃の仏陀や、張り付け前のキリストに刀を持たせたら、誰も適わないほどの腕前なのでしょうか?*7
  • そもそも、柳生宗矩は剣術の訓練を通じて何を教えようとしていたのでしょうか?斬る技術でしょうか?斬る技術だけでなく他のこともあったのでしょうか?

これら一見馬鹿馬鹿しい問いにどう答えるのか。大事なのは、この逸話には、答えらしきものはまったく説明されていないと判る事でしょう。答えが書かれていないからこそ、読み手は不思議さを感じるのではないでしょうか?解きたければ、テキスト外の条件(幾何の補助線)を持ち込んで、解くほかないのでは?*8

そもそも日本的な行動形式は、そんな問い直しを拒むとは言えないでしょうか?では、何故、問い直しを拒むのか?問い直しをする形式としない形式がなにが違うのか?*9

言葉でものごとを探るのであれば、そのように問うて行かない限り、言葉での説明は増えない。言葉で説明ができることと、実際できるのとは違う。ことの難しさの前にお茶を濁したいのであれば、この当たりの濁し方なら、今の私はしょうがないと言っても良い気が致しますが、やみくもに、昔の人は非合理的だとか、昔話はオカルトだと言ってすませば良いなんて考えはそれはそれで可能性を強引に捨て去ることであり、それこそ非合理的・反知性的態度になってしまわないか・・・そう思います。

*1:練習法が書いてあるわけでなく、短い一考察なので、あまり期待し過ぎてもあれですが。

*2:

禅という名の日本丸 の商品写真  禅という名の日本丸
著者: 山田 奨治
出版社: 弘文堂

に書籍もありますが、同じ失敗になっているでしょう。

*3:山田氏は、it is probably more appropriate to see Herrigel not so much as a logician but as a mystic who idolized Meister Eckhart.とまで書かれていますが、その論拠はなんでしょう?例えば、ニュートン錬金術士でもあったと知った途端に、ニュートンのプリンキピアは読無価値のないオカルト書籍になってしまうのでしょうか?

*4: iii) ヘリゲルのドイツ語のEsは、ドイツ人も大した主語を確定せずに用いる事もある。滞独10年の知人が違う見方を提示してくれました。

*5:まったく推測ですが、ヘリゲルはその日本の矢のできごとにすごい”根源的神秘体験”を見て、禅なり弓なりを続ける気になったのではないか、、、とは思います。暗闇の中の小さな灯火一つで寸分違わず弓を同じ場所に射ったことが、「<わたし>という心身の運用術の面で凄い!!!」とは・・・少なくともこのときは、思えなかったような気が致します。
しかし、そうであろうとなかろうと、それはヘリゲル側の事情であって、阿波範士があの「一見非合理的に見える説明」でなにを伝えようとしているのかを考えることにはならんのです。これ大事。

*6:いま出先で書いているので、後で若干訂正するやも・・・引用の正確性だけで、さして問題はないものの。

*7:死線をくぐっていない道場の達人よりも動けたとして、死線をくぐったそこそこ剣の扱いの上手い人にも勝てたのか?

*8:自分がどんな補助線を引いて、どう推察を進めて、とある結論に達したかを明確に知っておくことと、所謂禅問答のように間の説明を省いて、結論だけ提示することにどんな違いが生じるかを探ることはなかなかおもしろそうです。

*9:体得の説明ばかり重視して、言語の説明をまったくしていない。だから、言語の説明の可能性の探求は、元よりなされていない、こんな言い方はできましょう。そして、徹底的に体得を重んじる稽古と、言語を重んじる稽古のなにがどう違うのかなど考えてみるのも、なかなかおもしろそうです。

非文学的日本古典案内 その5 続き オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』 and/or 『日本の弓術』 解題

2016某日注:冒頭にいきなりですが、いまごろ振り返るとこの頃はほんとまだまだです。言葉という道具にまだまだ埋もれ過ぎて迷っている。いまだってかつてよりましなだけですが。
でもこれはこれでいかにも「この段階」がわかる最初の気付きなので、とどめておきます。いま見返すと、問題点がよく判る。
「心身並行論」のあたりもいかにも体験に乏しい。このころならスピノザの『エチカ』を薦めてしまったでしょう・・・いまならテキスト勉強は沢庵と洞山五頌あたりにして、テキスト勉強以外もやってごらんなさい、と言うでしょう。
『弓と禅』には新訳もでましたけれど私は中身を見ていません。

新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)  の商品写真  新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)
著者: オイゲン・ヘリゲル 翻訳: 魚住 孝至
出版社: 角川書店

『弓と禅』をじっくり読むと、オカルトなのかそうでないのかなかなか不思議です。『弓と禅』の自注にてヘリゲルは、ロマン派の小説家クライストの『マリオネット劇場について』に類似性があると言及しています。邦訳はこちらに収録。

チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)  の商品写真  チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)
著者: H・V・クライスト 翻訳: 種村 季弘
出版社: 河出書房新社

ダンサーやヨガ、格闘技などやられる方なら興味深い体の動かし方の一考察で、これと類似性を見るというなら、ヘリゲルは体の体感・内観に繊細で、その目で阿波範士とのやり取りを想起していることになる。それはオカルトの目では書けないことと思います。うがってみたら、ヘリゲルはオカルト風に謎掛け - 公案 - をここで出しているのではないか、、、。だから矛盾も放っておくのではないか・・・なんて思うと、他のヘリゲルが神秘主義風だったりして、なんだかよくわからんです。
揺れ動く段階にあった、と思うべきではないかな。。。
自分で自分を変えることを学ぶので、他人に教わってもなんです。だから謎掛けも悪か無い。ヘリゲルと沢庵あたりを

不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7) の商品写真  不動智神妙録 (現代人の古典シリーズ 7)
著作: 沢庵 宗彭
出版社: 徳間書店

追っかけて、自分の体を動かしたり、静かに観察したり、坐禅したりでいろいろやってみるにしくはないですね。自分で見つける訓練なんだし。・・・というところまでヒントを出せば十分ではないか・・・無門関、、、無門関はどうかなわたしも全部は到底よくわからない、、、洞山五頌をどこかで探してご覧下さいませ。書き下し文と注釈は読んでも、日本語訳は大概いまいちなので惑わされない様に。内観・内省を忘れず、自分でいろいろやったり読んだりが大事です。「自分で」というのがまた難儀だったりします。誰しも自分でできてるところだけ見たり、他人と比べたりしているのになかなか気付き難い。いま気付けているところしか見えないのをどうしよう、これが問題。
どうやったら自分で見つけられる様になるのか?を問うてくださいませ。これはヒント与え過ぎ。





ご挨拶遅れました、あけましておめでとうございます。

さて、掲題の書籍について、年末に書いた文章は、いつもの通り思わせぶりを乱発しつつ、こんなことあんなことがあるんじゃない?で終えました。それから、この問題ずっと考えてまして、自分なりに解けたかなと。

前回の記事を書いた頃は、言葉から自由になる為に、言葉をあくまで道具として使う為に、範士も意図的に禅問答をなしたものと、思っておりました。実際はそうではなくて、お互い言葉の説明の上で混乱していると思った方がよさそうです。

無我・無心は、“かのように”のイメージトレーニングであって、言葉で説明することから生じた問題。しかしながら、稽古が否定しているのは、言葉を用いることである。無我・無心が、どんな意識主体を否定しているかというと、「意識=言語活動」としての意識主体を否定しているだけだ・・・。簡単に言うと、こんなことであります。*1

・・・ということは、みなさま既に自明だったらごめんなさい。

弓と禅 の商品写真  弓と禅
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 福村出版

ややこしい話なので、すでに上の本は読んでいるという前提で話します。が、どんなストーリーかは、後段にもう少し長く引用したので、必要なら、そちらを見てくださいませ。面白い話なので、冗談抜きにご購入をオススメします。

こうやって読めば、解読可能というポイントは以下の通り。



◎この問答自体はイレギュラーなもの

ヘリゲルと阿波範士の問答は、ヘリゲルがさまざま質問して、無理矢理答えさせたもので、この問答そのものは普段の稽古ではありません。「ですからその話はやめて、稽古しましょう」と阿波範士は言うのです。少し言い過ぎですが、この書籍は稽古を記述したものではないと思うべき。他の弟子たちは、「私が、石橋を叩きたがる人のように質問するのを、不思議がった」そうです。



◎説明する際の言葉自体から問題が生じている

ヘリゲルがすっかり悩んでしまったのは、説明に選んだ言葉によって生じた悩みです。ヘリゲルは、独我論、主体客体論で考えた。それに対して、阿波範士が無我・無心で説明するのですが、阿波範士はあくまで独我論、主体客体の二項批判をしていると思うべきです。

阿波範士が、「無為の状態を待つ人は、それを待たないかのように待つ事」と言っていますが、範士の批判の方法は“かのように”なのです。これを、ヘリゲルはすっかり字義通り、私が射るのに、私が射ってはいけないってなに???と悩んでしまった。さすがカント学者!真面目!と言う他ないです。無駄な思念・動きを排除してより良い未来の“我”を作るのは、今現在の“我”ということまで、疑ってはどうしようもないけど、疑っちゃった。この書籍が、不思議に感じられるとしたら、ヘリゲルの記述に沿って、“かのように”を省いて読んでしまうからとなります。*2

我でなく、“それ”が射るといった心持ちにならないと雑念を払う事なんてできない・・・という事に過ぎません。正確には、“それ”が射るといった心持ちになってないと雑念を払えていない・・・と書くべきでしょう。皆、自分が確固たる主体として、考え、動くと思うものですが、「その頭の中は誰のもの?」という警句と一緒で、自分の心と体、そして環境の関係がきちんと把握された上で、ただ一つの射るという目的だけ、まったくその目的だけに動いた場合、果たしてそれは“我”が射って居るのでしょうか?とまぁ、種を明かせば簡単な話。*3

阿波範士は、理想状態がそれで、そうしなさい。と言っているだけです。「そして若し私が、あなた自身の経験を省いて、これを探り出す助けをしようと思うならば、私はあらゆる教師で最悪のものとなり、教師仲間から追放されるに値するでしょう。」としている。自分の経験で各自が探りだすことができる、その探り方も自分で探すことが課題・・・と思うと、さして不思議な感もなくなる。
しかし、そう理解することと、実際できるのとは違うのは言うまでもないです。そして、その言葉の説明が理解できないと悩む事は、実際に動いてできるできないと悩むこととも全く違うのが何とも。*4



◎心身並行論

なぜ無我・無心と言いたいほどの心と体をつくらないといけないかとなると、心身並行論、心と体(体の各部分)のホリスティックな関係があると思います。

幼な兒のようにという例え話、また、別所で、雪でしなだれた笹の葉が雪が落ちてもとに戻る様にというたとえ話もあります。これらは、心の面では−心身並行論だから、心と体を分離してはなんですが−「考えるな」と言っているだけ。

調べてみると阿波範士はかなり心重視の方だったようで、考えなければうまく体を運用できると、かなりの程度思っていたかもしれませんが、そうであったとしても考えない時の良い体の運用はある。*5その体の運用については、直接的具体的な説明はなされてない。具体的運用法抜きのイメージトレーニングですから*6、悩むのも致し方なしです。イメージですから、仮にヘリゲルの横の山田さん(仮)がうまくやっていたとしても、「山田さんのように卒然と放射しなさい」とは言いにくく、考えないと思われるもので例示をしないといけない説明となっている。しかしながら、そもそも、考えるなと言っているのに、悩んでもなんです。よく集中できていれば、呼吸も乱れないし、弦の圧力に負ける事もない。できないのは、集中してないから。これも正確には、集中している状態ならば、できる、できる状態が集中している・・・となりますか。いずれにせよ簡単に言ってしまえば、そういうこと。これには種も仕掛けもなく、範士はただそうなのだと言っているだけと思うがよろしいようです。*7

明示されていませんが、「体のことを言葉を使って考えると弊害がでてくる」という考え方もあると思います。ヘリゲルはほんの少ししか記述していませんが、(問答ではない)実際の稽古では、範士がちょいちょい弟子の体に触れて手直ししたり、弟子の弓をいじったりしていたそうです。もし、ヘリゲルが、無理矢理問答を仕掛けるのではなく、範士が黙って、しかし、動きながら何を教えているのかを観察・考察していたら・・・と惜しい気が致します。“かのように”の問答ではなく、“かのように”の稽古がそこにはあったような。無我・無心という言葉のイメージトレーニング自体、本来否定されるべきものなのでは?その稽古は、言葉を用いないから“かのように”は無く、言葉が無いけれど、具体的な稽古だったのでは・・・と推察する者です。つまり、無我・無心である“かのように”やれと言われて、無我・無心になろうなろうとただ思うことは、実は間違えている・・・

まず第一歩として、否定されているのは、我そのものでなく、「意識=言語活動」としての意識主体だと思えば取りあえずはよろしい。この問答が複雑に見えるのは、「意識=言語活動」だけでは、体の運用にならない・・・なんてことを考えれば、自ずと摑める気が致します。*8



◎一体、何を稽古しているのか

「正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ!」というのは、ある一つの目的に完全に集中する心と体の運用を学んでいると思えば、まぁ宜しいのでしょう。この道で得られた運用を他の目的にもできなきゃいかんというところまで視野に入れていると言ってよいのでは?

「射手は狙う事無しに、標中に中てるのです。」という言葉は、的に当てるスペシャリストではないものを目指していると思えば理解の取っ掛かりができそうです。的に当てようとして、体と弓と的の関係を探った方法と、そうしないで「何が、どう現れてくるか、お待ちなさい。」と時間をかけながら、稽古をした方法では、違いがあると範士は考えている。この違いが何かは判りませんが、例えて言うならば、試験勉強の一夜漬けで公式を覚えた場合と、公式の証明をきっちりやった場合の違いと思ったらどうでしょう。少なくともそんな違いが何かあると思えそうです。*9

悠長に時間を掛けて、要所要所で先生の言葉を用いない指導の下、生徒はそれを言葉で問い直さずに黙々と従って稽古する。そして、無我・無心になった“かのように”集中して、とある一つの目的を成す。一体、この稽古方法は何なんだと思いますが、先生は、「何が、どう現れてくるか、お待ちなさい。」と。つまり、その内、変化は起こる筈といいます。実際、悩み悩んだヘリゲルも確かに入門当時よりはうまくなっている。それぞれの弟子の資質に応じた期間で、それぞれ弟子の資質に応じた結果しかでないけれども、紛う方無き本物の訓練法・・・そんな言い方をしても良いのかも。*10



・・・とまぁ、こんなことであります。長くなりました。言葉で判るのはこんなところでしょう。“かのように”の説明に難を感じる人はあるかも知れない。弓術のことはまったく門外漢ですが、方々見てみると、阿波範士には技術論がないという批判は多いようです。ただそれも、問答の上だけのことかも・・・と少し思いました。*11



******以下、この書籍のエッセンス(恣意的ながら)******



入門から、一年たつてやつと弓を力強くしかも骨折らずに引く事ができるようになったヘリゲルの弓の稽古は、次の段階“放れ”−端的には、つがえた矢を、弦から右手をはずして放つこと−に進みます。でも、これがうまくできない。

「右手を開くに當つて先ず第一に拇指を押さえている三本の指を開く事が、努力なしでは出来ない」。そのせいで、衝撃が起こり、射が乱れる。しかし、どうにもうまくできないと思い悩む。そこで阿波範士曰く、

「あなたは何をしなければならないかを考えてはいけません。どのように放れをやるべきであるかとあれこれ考えてはならないのです。射というものは實際、射手自身がびつくりするような時にだけ滑らかになるのです。弓の弦が、それをしつかり抑えている拇指を卒然として切断する底でなければなりません。 即ちあなたは右手を故意に開いてはならないのです。」

この言葉を聞いても、一向に改善は観られない。そんなある日に、偶然なのか故意なのか、ヘリゲルは阿波範士にお茶に呼ばれ、こんな問答を致します。

私は云つた。「放れが臺なしにされない為には、手が衝撃的に開かれてはならない事はよく分かります。併しどのように私が振る舞つてもいつも逆になるので す。私が手を出来るだけしつかり閉じていると、開く時の動揺は避けられません。之に反して手をゆるめて放そうと苦心すれば、弦がまだ十分に引き絞る廣さに 達しないうちに、私には氣が付かないですが、やはり早過ぎて引き離されます。この二通りの失敗の間を右往左往して、私は抜け道が見出せないのです。」と。

師範は答えて云つた。「あなたは引き絞つた弦を、いわば幼な兒がさし出された指を握るように抑えねばなりません。幼な兒はいつも吾々が驚く程、その小さな拳の力でしつかり指を握ります。しかもその指を放なす時には少しの衝撃も起こりません。何故だか御存じですか。というのは幼な兒は考えないからです − 今自分はそこにある別の者を摑む爲にその指を放なすのだとでもいう風に。むしろ小兒は全く考えなしに、又意圖も持たずこれからあれへと轉々して行きます。 それで小兒は物と遊んでいる − 同様に物が小兒と遊んでいるとは云えないにしても − と云わねばならないでしょう」と。

続けてヘリゲル「併し私は全く別の状況に在るのではないでしょうか。私が弓を引き絞ると、今直ぐ射放さなければ引き絞っている事がもはや堪えられ ないと感じられる瞬間が来ます。その時思いもかけず何が起こるでしょうか?只単に私に息切れが襲ってくるだけのことです。それ故どうなろうと私は自分で射放さないわけには行かないのです。私はもはや射を待っている事が出来ないのですから。」

師範はまた答えて「あたなに対して難点がどこに在るか実によく述べられました。あなたがなぜ放れを待つ事が出来ないのか、又なぜ射放される前に息 切れになるのか、御存知ですか。正しい射が正しい瞬間に起こらないのは、あなたがあなた自身から放れてないからです。あなたは充実を目指して引き絞っているのでなく、あなたの失敗を待っているのです。そんな状態である限り、あなたはあなたに依存しない業をあなた自身で呼び起こす外に選ぶ道がないのです。そしてあなたがその業を呼び起こす限りは、あなたの手は正しい仕方でー小兒の手のように開かれません。熟した果物の皮がはじけるように開かれないのです」

ヘリゲル上の答えに混乱して、「私が弓を引き射放すのは、的に中てる為です。引くのはそれ故目的に対する手段です。そしてこの関係を私は見失うわけにはいきません。小兒はこの関係をまだ知りません。が私は之をもはや取り除く事は出来ないのです。」

その時師範は声を大にして云い放った。「正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ!あなたがあくまで執拗に、確実に的に中てる為に矢の放れを習得しようと努力すればする程、益々放れに成功せず、益々中たりも遠のくでしょう。あなたがあまりにも意志的な意志を持っている事が、あなたの邪魔になっているのです。あなたは、意志の行わないものは何も起こらないと考えていられるのですね。」

(中略)

ヘリゲル「しかしどのようにしてそれが習得されるのでしょうか。」

阿波師範「意図なく引き絞った状態の外は、もはや何もあなたに残らない程、あなた自身から決定的に離脱して、あなたのもの一切を捨て去る事によってです。」

ヘリゲル「それでは意図をもちながら意図のないように成らねばならぬ」

阿波範士「そんな事を今まで尋ねた弟子はありません。だから私は正しい答えを知りません。」

ヘリゲルはドイツ本国で射撃の名手でありました。そこで、衝撃を与えなければ良いと、静かに静かに弾いてみた。ヘリゲル本人としては、うまくできた!と思ったら、阿波範士から、そんなこっちゃない、そんなことするなら破門するぞと怒られてしまいます。

阿波範士「貴方は、一杯に引き絞った状態で無心になって満を持していられない事が、どんな結果になるかお分かりでしょう。貴方はいつも繰り返し、 自分にそれが実際やれるだろうかと自問しないでは、落ち着いて練習する事すら出来ないのです。まあじつと辛棒して、何が、どう現れてくるか、お待ちなさい。」

そうして、しばらく月日が経ってまた質問。

ヘリゲル「一体、射というものはどうして放たれる事ができましょうか。若し”私が”しなければ」

阿波範士「”それ”が射るのです」

ヘリゲル「”それ”とは誰ですか。何ですか。」

阿波範士「一度びこれがお分かりになった暁には、貴方はもはや私を必要とはしません。そして若し私が、あなた自身の経験を省いて、これを探り出す 助けをしようと思うならば、私はあらゆる教師で最悪のものとなり、教師仲間から追放されるに値するでしょう。ですからその話はやめて、稽古しましょう」

この段に至ってヘリゲルは、「尋ねないで稽古しなさい」という言葉しかもう引き出せないと確信して、稽古だけ黙々としていて、とある日に一つ射ったら、阿波範士が深々とお辞儀をしている。なにそれ?と見ていたら、範士曰く「今し方、”それ”が射ました!」。

ヘリゲルは、全部が全部でないけど、段々うまく射ることができるようになった。「正しい射が私の作為なしにひとりでのように放たれるという事が、 どうして起こるのか、どうして私の殆ど閉じられた右手が突然開いて跳ね返るようになるのか、私はその当時も、はた又今日でも之を説明することができない。」だが、正射(良い射)と失射(悪い射)は、「両者の質的区別があまりに大きいので、一度それが経験されると、もはや見逃されるわけにはいかないので ある。」失射の後は、「抑えられた息が爆発的に吐き出され、急には再び息が継げない」。正射の後には、「息は何の苦もなく滑るように吐き出され、続いて吸 気が急ぐことなく空気を吸う。心臓は均斉に静かに打ち続け、そして乱れない集中は遅滞なく次の射に移る事を許すのである。内面的には併し、正射は射手自身 に対して、その日がいま初めて明け始めた気がする位の作用を及ぼすのである。彼はその後ではあらゆる正しい行為に対して、又恐らく最も重要な事であるが、 あらゆる正しい無為に対して気分的に準備ができているのを感ずる。この状態がとりわけ重要なのである。併し師範は、微妙な微笑を浮かべて、無為の状態を待 つ人は、それを待たないかのように待つ事が良い事であると注意した。」

で、今度は的を狙うことになりますが、同じ問答が続きます。狙うなよ。「射手は狙う事無しに、標中に中てるのです。」。

ヘリゲル曰く、先生は長年やってるから、夢遊病者が無意識でも正しい道を歩けるようになってんですよー

阿波範士「あなたの言われる事には幾分尤もな所もあります。何しろ私は的に”向かって”立つのですから、たとい私が故意に方向を見定めるのではな いにしても、的はちらっと眼に留まらざるを得ないのです。併し同時に私はこのちらっと見る事では十分でない事、決定的でないこと、また何ものをも明瞭にし ないことを知っています。というのは私は、的を見ないかのように見るのですから。」

「じゃ、目隠ししても当るんですか?」「今晩いらっしゃい」

で、先生は真っ暗闇の中で、二本射る。ヘリゲルが確かめると、一本目が的の真ん中を、二本目は一本目を幾らか引き裂いて、やはり真ん中に。

阿波範士曰く、これも何度も慣れているからとおっしゃるかも知れないが、私はこれが私に帰せられるものでなく、”それ”が射たと知ってます。

その他、不思議体験として、先生がヘリゲルの弓を数回射った後に渡されると、非常に調子が良くなって、「(弓が)自ら進んで(ヘリゲルに)自分を引かせる」と感じたほどだった・・・と。



******以下、余談******



さて、ここからは余談ですが、この方法に特有の問題点は、いまでも世の中に散見されそうです。徒弟制度の難点と言ってしまってよいかも。

  • なんにせよ時間が掛かる。

    →これは、忙しい現代社会では難しいけれど、ほんとは必要かも知れません。思うに、幼少時も結構忙しく、6歳から論語素読でないけれど、どんどん本当の勉強・訓練をやった方が良いのかも。遊びや娯楽を完全に排除しても、また弊害はありましょうが。

    半知半解で、「えいやっ」とやるアニマルスピリッツが全く否定されているのではない。ここを思い違いするかも。出来る限り環境と自分自身を把握して、先入観・癖を取り払って行動する訓練であって、別に主体的行動を否定しているわけもなく、「ほんとうに」必要な際に半知半解で行動することも、確率論も否定されてない・・・こんな風に積極的に言い換えてみても良いかも。現状社会は、準備が整ってないままに、あーせい、こーせいとする。広告産業・レッテル張りのPRを見ても判る様に、社会は大勢の先入観・癖を刺激して左右するのが、ある種定石です。この訓練法は、そんなことに吊られない、他人がやっているからと、それそれとついていかず、お金を払わずに、先ず持って、例えば何が起きているかを観察すること、面白そうだとといきなりはまらずにある限度内で試してみる事、そんな訓練には大変有効そうです。
  • 問うことを禁止する事で、目的の価値や先生の善し悪しは問われない。

    →生徒は惑うもので中々真価が判らないですが、先生選び、何を習うかの選択の問題はやっぱり生じる。言葉で問う事ことをひとまず取りやめいする方法であることを逆手にとって、教え方に自ら無批判にして、他人の意見も聞かない、生徒の疑いに猜疑心発動する先生・先輩が多いのは皆様ご経験の通り。

    そもそも体の運用だから、言葉を使わない様にしているのに、言葉が必要な時にも説明できない先生・先輩も多いのは皆様ご経験の通り。大概は、言語活動によらない習得法だからこそ、言葉の問いを否定しているのではなく、先生・先輩自体判っておらず、単に自分のいう通りに動く相手を作ってるのが、支配欲が満足されて気持ちよいだけだからでしょう。

    言葉で問う事をやめたとしても、自分の内側の感覚を考えることは否定されてない。ヘリゲルは自分の動きを通じて問答すべきだったとも言えそうです。阿波範士はその間、ヘリゲルをよく注意して、長い時間じっと見ている。

    人生短いので、どこかでえいやっと決めた専門に邁進しないと生活費が稼げない世の中ですから、あれこれ手を出したり、いつまでも疑問を持つ事はどこかで遠慮しないといけない。とは言え、邦国では、そもそもあらゆる目的に応じられる心と体を目指している学生の内でさえも、諸々の分野に手を出すことは積極的に奨励されていない・・・*12
  • 無我・無心とは言うけれど・・・

    これも悪用されて、平然と滅私奉公というけれど、それって奉公先の得になってるだけでしょう?ということもある。*13大体、戦国期の武士は、確かに処罰も厳しかったけれど、前もって評価・報酬をきっちりさせた上での奉公です。

    残業している方が、きっちりさっぱり時間内に終えるよりも評価されるということに、いろいろ理由はあげられるでしょう。いずれにせよ態度を見て評価することの背景に、それも無我・無心の勘違い・悪用があると思いますがどうでしょうか?*14
  • “かのように”を付けたすことを忘れない

    ヘリゲルのようなかっちりした主体・客体に関しては、「主体だって影響受けるんだからさ〜」と思うこと。無我・無心に関しては、「それって“かのように”だよ!」と付けたすこと。これが、ささいなことながら大事と思われます。それを忘れてしまうが故の混乱、ヘリゲルが書籍に記した混乱は結構誰にでもあるのでは?

    ちょっと異なる例ですが、とある作品に意見すると(例「あの映画、つまらないよね〜」)、その作品そのものの存在価値を否定された様に怒りだす人がいます。関係者があらゆる否定的意見に神経とがらせるなら兎も角、単なるサービスの受け手にも関わらず・・・。話し手の方も、映画に関する単なる自分の感想を、直ちにその本質と思ってしまう事も多い。こういう場合も、話し手も聴き手も、「あの映画は、あくまで私はつまらないと思ってしまいました」という意味だと思えば、殆どはいがみ合いを避けられる事態でしょう。*15 *16

*1:実際には、座禅を通じて、体の無意識的・本能的な反応を起こさない訓練をしていても、それがそく弓を弾く、楽器を弾くなんてことにはならない。

*2:“かのように”やりなさいという言葉には、どこをどうやって?は含まれていない。

*3:誰しも、大変調子よく動いた時に、状況に即して自動応答したように、勝手に体が動いたという経験が、一回きりだけどあの時の自分は本当に不思議なくらいだったという経験があるものでは?

*4:こうなると、単に出発点の言葉の問題ですから、無我・無心も特別不思議な東洋思想でも何でもなく、独我・唯我からでも、同じ結果に行き着けそうです。

*5:これだって、あくまで「雑念を払う」事と思えば、「雑念でない、必要な念はある」と思っても良い。とは言え、そんなことを考えることがそもそも雑念なのでしょう。

*6:イメージも“かのように”ですから、阿波範士は言葉の上では、“かのように”の説明が好きだったと言ってよいやも。

*7:集中すれば力がでるのか?は不思議なことですが、火事場の糞力を思うと、あり得ると思っても良さそうです。ただ、それを実践する難しさは、「それがある」と思うこととは全然違います。わたしにさえは多少ともそんな経験がありますが、今やれと言われてもできません!しかし、火事場の糞力なんて迷信で、そんなもんない・・・となると、稽古の土台にも立てない。迷信とするならば、最大筋力を測らないと言えないことであります。
集中という厳然とした的なり答えがあるという考えはだめでしょう。

*8:阿波範士が重視する呼吸法が、最低限の身体活動に着目しているのも、ここら辺からいろいろ考えられるでしょう。その正しい呼吸法に寄って感じられ、だんだんと直される身体の変化は、記述されない。これは言葉の記述を禁止するから必然でもありますが、ヘリゲル自身が、「意識=言語活動」を用いない体の運用を、それでも記述してみようなんて思わなかったことによる。

*9:筋力について、弓を弾く程度の筋力は、誰にでも元からあるとは言えそうです。阿波範士は、筋肉の意図的な訓練や使用を否定しているのであって、意図的でない筋肉の発達は否定されていないことは、注意すべきやも。

*10:言ってみれば、上達がなくてもいいのです。でも、先生が黙して語らず、じっと見ているだけかのような指導があって、それが記述されていないのでは、と繰り返しになるが、そう思うのです。

*11:心身並行論、心と体(体の各部分)のホリスティックな関係、相互影響を成す関係があるとの前提に立てば、「この部位をこう動かす」という言葉の説明は大変難しくなる。言葉は体の各部分をパーツに区切ってしまうし、それも主語・動詞・目的語の文法があって、体のパーツの相互作用が見えにくくなる。例えば、「あしで強く地面を蹴って」というと、つま先にやたら力が入るけれど、体の他の部分は全然うまく使えてないことが多いはず・・・

*12:最近は、ダブルディグリーも取りやすくなったのでしょうか。

*13:大体、下心を問われない様に、滅私奉公と言っていたりするもので。

*14:会社に勤めている頃のある上司と私と同僚での飲み会での記憶。「仕事って君らにとって何なの?」「そんなもん、生活費を稼ぐ以外ないでしょう〜」「うんうん」「・・・それさ、僕は判ってるから良いけど、人事の前で言わない方がいいよ、真面目な話」。生活費の為に働く事と、仕事のやり方・成果の質の因果関係とはなんでしょう?

*15:この例で言うなら、話を膨らませて「これこれこういう風に思うから、ありきたりと思ったんだけど、僕の判断はどう思う?君はこの映画を見たなら、どう思っているのの?」と問えば、なおよろしいのでしょう。

*16:自分の現在の意見の明確化の断定は必要ですが、「もうこれ以上考えたくない」というケースもあろうし、「わたしは判っている!」と自分を鼓舞奮起するケースもありそう。断定している力強そうな自分に付いてくる小羊を探しているケースだって・・・

最近読んだ本などなど その4 & 非文学的日本古典案内 その5 オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』 and/or 『日本の弓術』

思いついた時にだけ書いております。今回取り上げるのは、

弓と禅 の商品写真  弓と禅
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 福村出版

日本の弓術 (岩波文庫)  の商品写真  日本の弓術 (岩波文庫)
著者: オイゲンヘリゲル
出版社: 岩波書店

私は福村出版社版を読みましたが、比べてないのでいろいろある翻訳がそれぞれどうなのかは判りません。*1内容は、ドイツ人の哲学者がちょうど大戦前の時期に、日本で弓術を習った、その体験録。これが簡単に読もうと思えば、簡単に読めるし、これは豊かな書物かも・・・と読んで行けば、実にいろいろと知らせてくれる面白い本。こんなに薄いのになんて重要なことばかり書いてあるのかと思う程です。

このところ続き物で書いている最近読んだ本などなどシリーズ(その1 / その2 / その3)に入れても良いし、前からごくたまに書いている非文学的日本古典案内シリーズに入れてもよいので(その4に直結します その4のi / 4のii / 4のiii)、タイトルが上のようになってます。

*****

宜しくない読み方と言えば、下の岩波版を開いた頁の商品の紹介にあるような

的にあてることを考えるな、ただ弓を引き矢が離れるのを待って射あてるのだ、という阿波師範の言葉に当惑しながら著者(1884‐1955)は5年間研鑽 を積み、その体験をふまえてドイツに帰国後講演を行なった。ここには西欧の徹底した合理的・論理的な精神がいかに日本の非合理的・直観的な思考に接近し遂に弓術を会得するに至ったかが冷静に分析されている。

のように片や合理的・論理的、片や非合理的・直感的と奇麗に分けてしまう読み方ではないでしょうか。エキゾチックで曖昧だけど、なんか良い事言ってるよね東洋!温故知新だよ!なんか全部、美につながるよね!神秘的だね!なんてつもりで読んでは、全然だめなんじゃないか。*2
*3

我々自身が当たり前と思って、読み過ごす、聞き流す事を、ヘリゲルが外人の立場で、逐一先生の阿波範士に問答してくれます。そもそも、言葉自体が間違いをもたらすからとお師匠様が説明したがらないのを、ロゴス上等!!の国からやってきたヘリゲルがむりくり話させた・・・その結果、我々は体験を伴わない書籍という形でとあるものごとに接することができた。しかし、書籍は、不完全であり、誤解もまねきやすい・・・でも、記録に残してくれたのは実に有り難いこと。現代の我々は、すっかり変わってしまっているから、阿波範士の言葉に反応するヘリゲルは、ほとんど今の我々と言えるのではあるまいか。ヘリゲルの解釈で何か明晰になったのではなく、ヘリゲルが見事に悩んでくれたお陰で、阿波範士の言葉を引き出すことに成功し、その意味の重要性を予感して、大切に記録してくれたことがすごいのです。

そんなヘリゲルとそのお師匠さま阿波範士の異文化コミュニケーションは、結構、ユーモラスでもあって、私が喫茶店で読みながら吹き出してしまったのはこの場面。ヘリゲルには、お師匠さまの言う事がさっぱり判らない。実際には私が的を射るのにもかかわらず、そもそも的を射ようなどと思うなとは一体なんなんだ・・・こんな類いの疑問があれやこれやと浮かび、上達しているのかなんなのか判らずに数年の月日が経ちます。

師範は私の心の中に起こっている事を感知したに違いない。彼はその当時 ー 小町谷氏が後から私に知らせてくれたのであるが − 日本語の哲学概論を熟読玩味して、私のなじみ深いこの側面から、私の指導を続行する方法を、見出そうと試みたのであつた。

お師匠さまは、その努力をどう実らせたのか・・・

併し結局彼は、こんな事を研究している人間には、弓道を身につける事は極めてむつかしいに違いないという事が、やっと分かつたという思いで、この書物を不機嫌そうに放り出したという事である。

さて、阿波範士は西洋哲学が判らないから本を投げたのか。そういう面だってあるかも知れない、ただ阿波範士が哲学概論を「熟読玩味」したと、ヘリゲルは書いています。大体、文中に山ほどでてくる、ヘリゲルと阿波範士のやり取りを読めば、阿波範士はヘリゲルの言葉をきちんと理解し、それを使いながらきちんと自らの考えを表現してい判ることは、誰にも明白なことでしょう。

あまりごちゃごちゃ言っても致し方ないので、今ひとつ、面白いと思う部分を挙げますと。「一年たつてやつと弓を“精神的に”即ち力強くしかも骨折らずに引く事ができる」ようになったヘリゲルの弓の稽古は、次の段階“放れ”−端的には、つがえた矢を、弦から右手をはずして放つこと−に進みます。これがうまくできない、「右手を開くに當つて先ず第一に拇指を押さえている三本の指を開く事が、努力なしでは出来ない」。そのせいで、衝撃が起こり、射が乱れる。しかし、どうにもうまくできないと思い悩む。そこで阿波範士曰く、

「あなたは何をしなければならないかを考えてはいけません。どのように放れをやるべきであるかとあれこれ考えてはならないのです。射というものは實際、射手自身がびつくりするような時にだけ滑らかになるのです。弓の弦が、それをしつかり抑えている拇指を卒然として切断する底でなければなりません。即ちあなたは右手を故意に開いてはならないのです。」
この言葉を聞いても、一向に改善は観られない。そんなある日に、偶然なのか故意なのか、ヘリゲルは阿波範士にお茶に呼ばれ、こんな問答を致します。

 私は云つた。「放れが臺なしにされない為には、手が衝撃的に開かれてはならない事はよく分かります。併しどのように私が振る舞つてもいつも逆になるのです。私が手を出来るだけしつかり閉じていると、開く時の同様は避けられません。之に反して手をゆるめて放そうと苦心すれば、弦がまだ十分に引き絞る廣さに達しないうちに、私には氣が付かないですが、やはり早過ぎて引き離されます。この二通りの失敗の間を右往左往して、私は抜け道が見出せないのです。」と。

 師範は答えて云つた。「あなたは引き絞つた弦を、いわば幼な兒がさし出された指を握るように抑えねばなりません。幼な兒はいつも吾々が驚く程、その小さな拳の力でしつかり指を握ります。しかもその指を放なす時には少しの衝撃も起こりません。何故だか御存じですか。というのは幼な兒は考えないからです − 今自分はそこにある別の者を摑む爲にその指を放なすのだとでもいう風に。むしろ小兒は全く考えなしに、又意圖も持たずこれからあれへと轉々して行きます。それで小兒は物と遊んでいる − 同様に物が小兒と遊んでいるとは云えないにしても − と云わねばならないでしょう」と。

この著作には、実に見事で、再び読んだ時に、「もしやそういうことだったか!」と意味が開かれる記述が多いですが、この一連のやり取りはその中でも実にすばらしいものでした。いつものフレーズですが、未読でいらっしゃったら、騙されたと思ってお手にどうぞ!全体が見事に一体を成していて、今思えば、小著ながらも一切章立てがないのは、ヘリゲルがそれを狙ったからではないかとも思います。*4

弓と禅 の商品写真  弓と禅
著者: オイゲン・ヘリゲル
出版社: 福村出版

日本の弓術 (岩波文庫)  の商品写真  日本の弓術 (岩波文庫)
著者: オイゲンヘリゲル
出版社: 岩波書店

いま私は、阿波範士の言葉は、比喩でもなんでもなく、なんの含みもなく、「そうあるべき。やってごらんなさい。」ということを出来る限り具体的に表現しただけだと考えております。この問答から話はいろいろ広げられて、意志、意識、自我、過去、現在といった言葉の意味はなんなのか、それらを実はそんなにきっちり分からずに使う自分自身に気付かせられる。そして、それらの言葉のセットを日常で実際に用いるということはなんなのか、それらの言葉のセットを使った際の限界とは何か、言葉だけ論理的にやり取りしてしまったら果たしてどうなるのか。言葉のセットを使用したからこそ出てくる問題と、実際の問題に差はあるのかないのか。

結構、切りがありません。私と道具、的の関係とはなんなのか、その関係は果たして私の中にあるのか?私がそれを考えたからと言って、私の中にあるのか?範士は言葉のやり取りをしているのか?言うなれば、心も体も一体となった私の運用の話とすると、果たしてこの本は言葉だけ追って理解できるのか?そもそも、言葉で理解するとはなんぞや? そして、上に広げていろいろ考えてみた事は、実際に弓を射る稽古なのか、そうでないのか。*5

最後に私が先日まで持っていた勘違いを恥ずかしながらに書きますと・・・。考えずにやりなさいという範士の言葉を読んで、考えずにやればできるというなら、無意識にやればできる、元々わたしは答えを知っている、自分の本能的とも云える感覚を引き出せば万事うまくいく・・・そんなことだと考えておりました。実にこれが間違いで、元々答えを知っているのではなく、万事を現在として把握するなんて言い方をすべきことで、また、それは分けも分からずにできるのではなく、出来た暁には、はっきりと明晰であること。別の言い方をすれば、わたしの癖、間違った自分自身に関する認識を捨て去って、まったく新たに かつ 正しく動く為の、答えそのものではなく、答えを得る為の方法論といったものだった。うまい言い方ができないので、却って混乱しそうですが、いずれにせよそう分かってから、やっとスタートラインに立つ準備ができたんだ、、、とそんなことを感じました。

随分長くなりましたが、最後に大変面白い映像を。



*1:2016年某日注:新訳もあります。

新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)  の商品写真  新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)
著者: オイゲン・ヘリゲル 翻訳: 魚住 孝至
出版社: 角川書店

*2:阿波範士の言葉が、合理的でない、論理的でない・・・とするなら、ヴィトゲンシュタインはどうなるのか?

*3:2016年某日注:単なる神秘家なら自注の中で、クライストの『マリオネット劇場について』に類似性があると言及するのか・・・これを書いていた2008年当時は見落としていました。『マリオネット劇場について』の邦訳はこちらに収録。

チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)  の商品写真  チリの地震---クライスト短篇集 (KAWADEルネサンス/河出文庫)
著者: H・V・クライスト 翻訳: 種村 季弘
出版社: 河出書房新社

*4:2016某日:「あなたは何をしなければならないかを考えてはいけません。」これなど未来の想定の禁止ですよね。では、いまなにをやるべきか・・・。集中。集中の中身ってなにかしら・・・もしくはどう辿り着くのか・・・。目的は弓を引き、的に当てるとして、さていまなにをすべきなのか?いわゆる、地図と現地の問題も絡みます。

*5:今一度、阿波範士の言葉が、合理的でない、論理的でない・・・とするなら、ヴィトゲンシュタインはどうなるのか?

論理哲学論考 (岩波文庫)  の商品写真  論理哲学論考 (岩波文庫)
著者: ウィトゲンシュタイン 翻訳: 野矢茂樹
出版社: 岩波書店

『論考』『青色本』読解 の商品写真  『論考』『青色本』読解
著者: ウィトゲンシュタイン 翻訳: 黒崎宏
出版社: 産業図書

ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究 の商品写真  ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究
著者: ウィトゲンシュタイン 翻訳: 藤本 隆志
出版社: 大修館書店

『哲学的探求』読解 の商品写真  『哲学的探求』読解
著者: ウィトゲンシュタイン 翻訳・解説: 黒崎宏
出版社: 産業図書


2016年某日注:これを書いた2008年当時はまだまだです。あまり判らずにウィトゲンシュタインを持ち出している。でもウィトゲンシュタインのつまづいたところを考えるのも良い練習課題になります。前期ウィトゲンシュタインに従って、犬に向かって、お前は曖昧なんだから吼えるな!という者は天才論理学者か?実際、ウィトゲンシュタインは、馬鹿だと思う人の話はさえぎりかぶせる癖があったようです。ろくに聞かないんじゃないかな・・・
後期ウィトゲンシュタインはなにがアレなのか?再三「哲学は無意味である」といってますね。ならどうするの?
しかし、こういうヒントがあるから、答えが導かれたりするもので、自分で類似のケースに問題を発見できるわけではない。こんなこと自分で思いつくのが、目指す涅槃=清浄=落ち着いた状態 ではあるまいか?